母思い、次姉は入学諦める 赤嶺松栄さん 住民の「疎開」(4)<読者と刻む沖縄戦>


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 宮崎県高岡町(現宮崎市高岡町)の疎開地で、赤嶺松栄さん(85)=南風原町=ら家族4人の新たな生活が始まりました。その頃の思い出があります。

 《子どもたち数人が『赤嶺君遊ぼうや』と呼びに来て、その中の1人が土間まで入ってきました。私が『まっちょーけー』と言うと、外にいる人たちに『まっちょーけーって』(待っておきなさい)と伝えるのでした。

 沖縄の方言が伝わったとの驚きとともに、これから一緒に楽しくやっていけそうだと思いました。》

 赤嶺さんと三番目の姉で3歳年上の清子さんは地元の高岡国民学校に編入しました。しかし、沖縄県立第二高等女学校に通っていた6歳上の次姉の弘子さんは地元の女学校への編入を諦めました。

 《母1人が働き手で家族の面倒を見ることに、次女は強く心を痛めていました。地元の女学校の先生方が幾度か来訪されて、女学校への編入学を強く勧めました。それでも母への思いが強く、働き手となるとのことで、女学校への入学を諦めました。》

 母と弘子さんは高岡で忙しい日々を送りました。

 《母が樟脳(しょうのう)工場で働き、次女の姉は約500坪の畑を借用して農業に精を出し、時には日雇いの仕事に出るなどして日常の糧を得るという厳しい生活を強いられました。三番目の姉と私も手伝いを欠かせません。畑作では隣の畑の方が肥料を運んでくれるなど親切に助けてくれました。》