【うるま】うるま市川崎の宮城幸一さん(92)、信子さん(92)夫妻は60年前に起きた米軍機墜落事故で自宅の家屋が全焼した。墜落した機体のガソリンに引火した。テントでの寝泊まりや仮設住宅など厳しい生活を送った。その後、焼け残ったブロック塀と門構えをそのままに同じ場所に自宅を建て直した。今も当時のブロックの門構えと塀が残っている。「忘れたいのに今も米軍機は変わらずけたたましく飛んでいる」
1961年に米軍ジェット機が具志川村川崎(現うるま市川崎)に墜落した事故から7日で60年となる。死者2人、負傷者6人、近隣家屋の火災や損壊など甚大な被害をもたらした。
事故が起きた午後1時40分ごろ、畑から戻り台所に立っていた信子さんは、大きな音に驚き外に飛び出た。家の上座から火の手が上がり、黒い煙が襲ってきた。数分前まで墜落場所で遊んでいて、自宅に戻っていた子どもたちの手を取り、近くの畑に走った。
一報を聞き、職場から駆け付けた幸一さんの目に入ったのは、黒焦げて骨組みだけとなったわが家だった。遠くの場所で、子どもたちと震える信子さんの姿が見えると、涙があふれ出た。
事故後、川崎小学校の運動場に建てられた仮設住宅で数日過ごした。親戚の宮城文吉さんは事故の犠牲となり亡くなった。
着の身着のままで焼け出された家族が、米軍に求めた賠償額は「高い」と突き返され、低く見積もられた。「希望額をかなえたいなら米本国との交渉になる」との脅しも受けた。「強く言える状況ではなかった」(幸一さん)。賠償金はやっと家を建てられる程度だった。
「もう60年も前の話だ。家族が無事だっただけでも良かったよ」。その声をかき消すように米軍機の飛行音が鳴り響いた。
(新垣若菜)