汚水でのどの渇きを紛らし、崖から身投げる人も…12歳の少年がサイパンで見た光景<思い尽きず・再開、南洋群島慰霊>上


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地上戦で亡くなった肉親らを思い、手を合わせる上運天賢盛さん(右)=4日、サイパン島のおきなわの塔(国際旅行社提供)

 太平洋戦争中に日米両軍の地上戦が行われた南洋群島の県戦没者を追悼する「南洋群島慰霊と交流の旅」が、コロナ禍を挟んで3年ぶりに開催された。南洋群島帰還者会としての組織的な現地慰霊祭は、会員の高齢化を理由に2019年に終了したが、遺族から現地慰霊の要望が相次いでいた。

 同会会長の上運天賢盛さん(91)=那覇市=も「丈夫なうちは100歳まで行くつもり」と力を込める。3年ぶりにサイパン島を訪問した4日、亡くなった父やきょうだいらを追悼する「おきなわの塔」を訪れた。手を合わせた塔の後ろに、切り立った崖がそびえる。追い詰められた住民らが身を投げたことから、米軍は「スーサイドクリフ(自殺の崖)」と呼んだ。78年前の出来事を上運天さんは今も忘れられない。

 地上戦当時12歳。一家全滅を避けるため、父母やきょうだいと分かれ、叔父と同い年のいとこと共に避難した。叔父は日本兵の手榴弾(しゅりゅうだん)自決に巻き込まれ、破片で腹を裂かれて亡くなった。「おなかがぱかっと開いてはらわたが飛び出していた」

 いとこと2人、攻撃の合間を縫って岩陰から岩陰へと逃げ回った。家畜のふん尿が混じったため池の水をハンカチでこして喉の渇きを紛らした。

 大勢の住民が島の北部へと追い詰められた。上運天さんも北端のマッピ山の岩陰に身を隠した。岩陰からは、崖から身を投げる人々が見えた。
 (赤嶺玲子)


 南洋群島の地上戦から78年。遺族の高齢化が進むが、肉親の骨が眠る地への思いは尽きない。遺族の戦争体験と慰霊の旅に込めた思いを追った。

 


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