『歌文集 アジアの片隅で』 魂の根源揺さぶる絶望


社会
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『歌文集 アジアの片隅で』新城貞夫著 砂子屋書房・2500円+税

アジアの片隅で―新城貞夫歌文集

 本書を開いて、無愛想な装丁にまず戸惑ってしまう。目次もなければ見出しもない。人を食ったような饒舌(じょうぜつ)な文体と著者の立ち位置にはつかみどころがない。

 「高々だが、基地負担の軽減を政府に要請・請願する『建白書』を携えて上京した沖縄の人たちを売国奴と罵る連中」を、「勇ましく見えて、あまりにみみっちい」「私には売る国家がない」と痛烈に皮肉る一方、要請団に対しても「いまなぜ時代錯誤的な建白書なのか」と疑義をはさみ、「県民は臣下なのか」「卑屈である」と批判する。《国家なんて一銭五厘で売るがよい父あらば父の怒りの塩よ》
 とはいえ、読む人は本書から新城の広く深い思想と歌歴に触れ、かつて短歌で活躍した沖縄の青春群像の存在を知ることができる。その中には知念正真らの故人や作歌をやめた人もいる。現在も活躍している歌人として新城が取り上げている歌人は、屋部公子、比嘉美智子、喜屋武盛市、名嘉真恵美子、玉城洋子、當間實光、玉城寛子、伊志嶺節子たちである。スケールの大きい異色の歌人として注目するのが伊波瞳と歌集『サラートの声』。
 新城は謎に包まれている。出生と来歴は? 影響を受けた歌人は? 政治歴は? マル研との関わりは? 現在の時代をどう見るか? これら謎のベールを本書は少しずつ剥がしてくれる。
 新城は1962年の第8回角川短歌賞次席になっている。翌年、その短歌群を含む第一歌集『夏、暗い罠が……』を発刊。歌集を巡って、玉城徹、寺山修司、馬場あきこが、角川の『短歌』で論争している。その中で寺山は「暗いギラギラした詩情には、現代短歌全体の失っているなにかがある」と評している。
 自分を「時代の外に在る」とする著者の立ち位置には同意できない面もあるが、著者の、時代への絶望に根差した〈反政治〉の呪詛(じゅそ)には魂の根源を揺さぶるものがある。「ひとは…、世界平和のための有益な人材などではない。ひとは何かの単なる素材ではあり得ない、ある何ものかである。どの地域にも生活するという事実だけがある」(平敷武蕉・文芸評論家)
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 しんじょう・さだお 1938年、サイパンに生まれる。62年、第8回角川短歌賞次席、98年「新城貞夫歌集」、2011年「新城貞夫歌集2」、13年「ささ、一献 火酒を」。