④「許せない、でも…」 脱貧困 母娘で一歩


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仕事を終えて帰宅する母と子。安定した生活へ親子で一歩ずつ進む=本島中部

 日本復帰で沖縄がめまぐるしく変化していた1970年代初め。当時、4、5歳だった少女は母に連れられ那覇市の映画館に来た。かわいらしい子鹿が登場するアニメ映画を、迎えに来るまで見ているように言われた。しかし映画が終わっても母の迎えはなかった。繰り返し上映されるのを見続けたが、とうとう映画館が閉まり、外に出された。暗い街で座って待ち、母の姿を見た時は心からほっとした。
 祖母(73)のたばこでやけどを負わされた少女(10)の母親(47)が幼いころの思い出だ。彼女もまた、貧困にあえぐ子ども時代を送ってきた。
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 68年、スナックで働く母とタクシー運転手の父との間に生まれた。小学校に入ったころから両親が別々に暮らすようになり、2人の間を行き来して育った。
 小学校低学年のころは父と生活した。父は夜勤専門の運転手のため、小学3年のころから夜は1人で過ごした。毎日、数百円をもらって夕飯を買い、1人で食べて寝た。夕方になると寂しくなり、近所に住むいとこの家の玄関で過ごした。「おばさんに帰りなさいと言われるまで玄関にいた」。いつも1人だった。
 母が時々来て、父の給料を取っていなくなることがあった。その月の残りの日々は食事にも事欠いた。「食べるのは給食だけ。土、日におなかがすいて、いとこの家に行くの。何度も行けば、何度かに1度は食べさせてもらえるから」。近所の人に食べ物を分けてもらうこともあった。
 小学校高学年になると母と暮らし始めた。水商売を続けていた母との生活はさらに困窮した。母は、突然1週間ほど家を空けることがあった。食べる物がなくなり、空腹に耐えられなくなると、夜、別の街に住む父の所まで歩いて行った。夜勤でいない父の家の玄関先で寝たこともある。
 高校3年の時、母が無断で学校に退学届を出した。登校して初めて退学届が出された事実を伝えられ、撤回する方法を知らないまま学校を退学した。それから非行に走った。窃盗などの犯罪にも手を出した。
 母の後を追うようにスナックで働いた。「10代のころは、精神的におかしくなりそうだった。生きていてもしょうがないと思ったこともある」と心の傷の深さを語る。
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 母に何度も裏切られてきた。それでも大人になってから関係を断ち切ることはなかった。娘を連れて母の所へ引っ越したのも「年老いた母を手伝いたい」という思いからだった。やけどを負った娘と母の家を出た今でも毎日、部屋に洗濯物が干されているか確認する。「娘にしたことは許せない。でも、ずっと母を思ってきた」。断ち切ることのできない親への思いがある。
 憎めないもう一つの理由がある。母自身も貧しさの影響を受けてきたことを知っているからだ。戦後、決して豊かではない生活の中で、十六、七歳で那覇市の歓楽街のスナックで働き、生計を立てたと聞いている。
 最低限の教育しか受けていないだろう母にお金持ちの客が付き、結婚するまでは羽振りの良い生活を送ったという。「母は幼いころから気性が荒かったというのはある。でもお金を稼ごうと水商売の世界に入り、金銭感覚が狂った。今でも、その感覚が抜けないのだと思う」と母の立場をおもんぱかる。
 幼いころから心につかえてきた思いがある。「夕方、人の家の窓から夕食の風景を見ると惨めだった。何で私のお母さんはいないんだろうって」。だからこそ娘には同じ思いをさせたくない。
 貧困の連鎖を断ち切り、経済的な困窮から抜け出すのは難しい。それでも娘の手は離さないと決めている。高等学校卒業程度認定試験(旧・大検)を繰り返し受け、合格まであと1教科となった。確かな生活基盤を築くため、2人で一歩ずつ進んでいる。(子どもの貧困取材班)