『石垣市史 各論編 考古』 八重山の古代史解き明かす


社会
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『石垣市史 各論編 考古』石垣市史編集委員会監修 石垣市教育委員会・3700円+税

 2015年9月に『石垣市史 考古編』が刊行された。たくさんのカラー写真とともに遺跡や遺物の語る石垣市の歴史が展開されている。文字による八重山の歴史は、有名なオヤケアカハチ(石垣島)、慶来慶田城用緒(けらいけだぐすくようちょ)(西表島)や仲宗根豊見親(とぅゆみゃ)(宮古島)の武勇伝とともに15世紀後半に始まる。考古編が扱うのはそれ以前の時期だ。注目される二つの時期を紹介しよう。

 2010年、新石垣空港建設に伴って発掘調査された竿根田原(さおねたばる)遺跡で、2・4万年~2万年前の人骨が見つかった。日本本土では酸性土壌が原因でこの時期の人骨がほとんど残っていないため、日本人のルーツを追究する学者の注視する調査となったことは記憶に新しい。当時の海面は今より120メートルも低く、石垣島と西表はつながっていたという。この島に旧石器人はどこからたどり着いたのだろか。最先端の研究と発掘調査は今も進行中だ。
 12世紀から15世紀、八重山の歴史は大きく動いた。それまで土器のない生活を送っていた人々に沖縄・奄美・本土の文化が伝わり、人々の生活は粟と稲を植え牛を飼うものになった。間もなく南中国・台湾を経由した船が八重山諸島に到着し、この地域は中国と沖縄諸島を結ぶ交易船の寄港地となる。国際化し始めた八重山の動きが15世紀の琉球国成立に続いてゆく。ちょっと大げさだが八重山の歴史の解明が琉球国理解の鍵であることが、中国陶磁の精密な研究で分かってきたのである。これはとても大事なことだ。
 この30年間の発掘調査の成果は八重山の古代史を一挙に前進させた感があるが、これらはこれまで基礎的研究を重ねてきた大濱永亘さんら先学の地道な努力の上にある。本編の編集と執筆に力を尽くした金武正紀さんは、明治期にさかのぼって学史を丁寧に示してくれている。
 後編では、近年盛んになってきた水中考古学の成果や近世の焼き物、戦跡考古学の成果も紹介されている。戦跡の資料はとても詳しい。好評を博した『石垣市史考古ビジュアル版』1~7(2007~11)の総括編としての一冊が、多くの方の力で完成したことに拍手を送りたい。(木下尚子・熊本大学教授)
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 いしがきししへんしゅういいんかい 今回の考古編の監修は、金武正紀(きん・せいき)、石垣博孝(いしがき・ひろたか)、石垣久雄(いしがき・ひさお)の3氏が務めた。