『艦砲ぬ喰ぇー残さー物語』 激動の沖縄生きた家族


社会
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『艦砲ぬ喰ぇー残さー物語』仲松昌次著 ボーダーインク・1600円+税

 読谷村楚辺に「艦砲ぬ喰ぇ残さー」の歌碑がある。「若さぬ時ねー戦争ぬ世」で始まり、歌詞の最後は「いゃーん我んにん/艦砲ぬ喰ぇー残さー」のリフレインで歌われるあの歌だ。1970年代に4人姉妹の「でいご娘」によって、たちまちヒットした。作詞作曲は「でいご娘」の父親・比嘉恒敏。

 本書はその誕生と世に出るまでの物語である。著者はその歌詞を追いながら、恒敏とその家族の歴史をひもといていく。長年、テレビ・ディレクターを務めた手法さながらに、読者を引き込んでゆく。やがて読者は、この歌が作者の壮絶な人生から生まれたことを知る。
 楚辺で生まれた恒敏の人生は、出稼ぎ、戦争、両親や先妻とその子どもの戦死、戦後の故郷・楚辺の軍用地接収による立ち退きなど、戦前戦後の「沖縄」を体現したものであった。著者は「いくさ世を生き抜き、戦後の過酷な沖縄で生きたすべての人々に通底する物語となる」と書く。
 そうした苦しい生活の中でも、3男4女の子宝に恵まれ、4人娘に三線や踊りの手ほどきをしたのが評判となり、1964年に「でいご娘」としてデビュー。「艦砲の歌」ができたのは、60年代後半だった。恒敏は青年時代に、大阪で普久原朝喜の新作民謡の感化を受けている。
 70年代に入り、「でいご娘」は絶頂期に入る。ところが73年10月10日夜、公演帰りの車が、飲酒運転の米兵の車に正面衝突され、妻のシゲが即死、重体の恒敏も4日後に死亡。56歳の、あまりにも短い生涯であった。
 事故後、活動を休止していた「でいご娘」が、75年、父の遺志を継いで作曲家・普久原恒勇のプロデュースによる「艦砲ぬ喰ぇぬくさー」で活動を再開した。
 著者は言う。「単なる反戦歌ではない。親子、家族の絆をうたって希望をつなぐ歌ではないのか」と。戦後70年が過ぎ、時代はキナ臭さが漂い始めている。再び「艦砲」の犠牲を出さないために、「命のリレーの重さ」をかみしめたい。(三木健・ジャーナリスト)
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 なかまつ・まさじ 1944年、本部町瀬底島出身。首里高校・琉球大学史学科を経て日本放送協会にディレクターとして入局。主に文化教養系番組を制作。2005年に退職、帰郷。現在、フリーディレクター(演出)。

「艦砲ぬ喰ぇー残さー」物語―「でいご娘」と父・比嘉恒敏が歩んだ沖縄
仲松昌次
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