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<メディア時評・政府言論とメディア>問われる基本姿勢 プロパガンダ加担するな


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 政府の政策は、国民が十分理解して実行されることが望ましい。そのため政府は広報活動等を行う。しかしその活動は、圧倒的な資金力と影響力に下支えされ、かつ政治的であることを十分認識する必要がある。

 一連の安保法制に関し、首相自ら特定のテレビ局にのみ、しかも複数回にわたり出演するなどの手法は、幅広く理解を求めるという本来の趣旨には合致しがたい行為だ。また、国会審議で資料の提出を拒んだり、開示された関連文書が黒塗りになったりという実態も、政府の都合の良い情報に基づき議論することを国民に強いるものといわざるを得まい。
 こうした態度は、安保法制に限らず、今般の「政府言論」の大きな特徴ともいえる。その最たるものは教科書検定である。政府方針に沿った内容であることを求め、結果として従来の歴史解釈の変更を迫ることとなっている。また、放送局や新聞社に対して、とりわけ基地、原発、そして安保法制に関し政府批判を許さないという、これまでにない強い態度を示し続けている。こうした空気感は、美術館や公民館といった公共施設でも、市民の表現活動の抑制という形で顕著に表れ始めている。

役割の自己否定
 政府言論が無制限に認められると、社会の言論空間が政府の言い分に事実上占有される危険性が高まる。だからこそ、プロパガンダに陥らぬよう、時の為政者は自制的に振る舞わねばならない。単に言い過ぎないだけではなく、異論や反対意見を封じ込める「言わせない」行為や、特定の表現行為を優遇することも許されないのだ。
 マスメディアはこうした官邸や行政の言論活動の場にもなっている。政府発の圧倒的な情報量に対し、ジャーナリズムは、異論や相対的な少数意見を拾うことで多様な言論公共空間を形成することが役割である。しかし現実には、政府の広報活動を後押しするような態度が少なからずみられる。
 さらには、一般市民の貴重な表現活動であり憲法上の権利である請願権の実効的手段でもある国会や米軍基地前で行われているデモや集会について、その価値を否定するかのような記事や番組内の発言も続いている。こうしたマスメディアの姿勢は、自らの社会的役割の否定につながりかねない。

淡々とした裁判報道
 辺野古新基地建設に関し、国との行政協議に期待が持てない状況の中で沖縄は、国連、米国に直接働きかけるほか、司法の場で県の正当性を主張することを通じて国民全体への理解を求め続けている。政府を変えるのは「世論」であるとの思いからであろう。
 法廷では、政府と沖縄県の裁判が同時に3つ展開されている。仲井真弘多前知事の埋め立て承認を翁長雄志知事が取り消したことに対し、国(防衛省)は行政不服審査法に基づき、取り消し処分の取り消しと、取り消しの効力停止を国交大臣に申請した。国交大臣が取り消しの効力を取り消した上で、地方自治法に基づく代執行を求める裁判を起こした。一方、県は効力取り消しに対して抗告訴訟を起こした。また県は、国交大臣による承認取り消しの効力停止を不服として国地方係争処理委員会に申請したが、同委員会が門前払いをしたため、これについても県は裁判を起こしたのである。
 こうした流れは、扱いの軽重はあるにせよ、在京各紙も多くの地方紙も、一定のニュースバリューを持って伝えている。しかしここで特徴的なのは、基地建設に対していつもの賛否が分かれる論調ではなく、総じて、既定の事実として法廷闘争の成り行きを「記者発表通り」に淡々と伝えている点である。
 例えば、国が行政不服審査法を使ったことについて、争いの一方の当事者である省庁が審査請求をして別の省庁が問題なしとするということは法の趣旨に逸脱しないのか、といったチェックがジャーナリズム全体としては決定的に少ないということだ。国が、埋め立て事業者としての一私人の立場と、代執行裁判で見せる「ザ・政府」の立場を都合よく使い分けているといった点に関しての指摘も同様である。突発的な事件ではなく十分に時間があったにもかかわらず、各紙に「準備不足」はなかったか。さらに言えば、国が実行する法手続きは基本的に正しいという呪縛にとらわれているのではないか、と思わざるを得ない。刑事裁判において、検察の主張が正しいことを前提に被告を有罪視する紙面作りと共通するのではないか。
 また、今後の見通しとして、新基地容認の立場の新聞各紙は本体工事に着手、という国の発表をそのまま報じ、既成事実が進んでいる印象を醸し出している。このような国が希望する「最短」スケジュールに沿った報道は、本来の地方自治の本旨にもとる、国と県の力関係がバランスを欠く状況を映し出している。

当たり前の報道を
 国と県が争った場合に、訴訟も含め圧倒的に国が有利であることは周知の事実であるとしても、マスメディアにはこうした異議申し立てに耳を傾ける姿勢が求められているが、その扱いは現実には大きくない。国益のためには身勝手な異議申し立ては認めるべきではないとの空気がメディア内部にありはしないか。安保法制や原発再稼働、米軍基地問題は、各紙の主張に注目が行きがちであるが、そもそもの基本姿勢が権威頼りや前例踏襲ではその主張は色あせてしまうだろう。
 総務大臣が「法に基づき電波停止はあり得る」と言ったり、首相が「私にも言論の自由がある」と繰り返せば、それを伝えることは大切だ。しかし「事実」を伝えることにこだわるあまり、その背景や問題の所在が十分に伝え切れていない。そのように見受けられる結果として権威ある者の声がメディアを通じ社会の中では広く流れがちだ。だからこそ、二歩も三歩もさらに視点を下げ、社会の仕組みを背景も含めて、よりわかりやすく、きちんと繰り返し伝え続けるという、「当たり前」のことが、ジャーナリズム活動により一層求められている。
(山田健太、専修大学教授・言論法)