「ぜいたく何もせず」 焦る日々 頼る人なく


この記事を書いた人 外間 聡子
借金苦で車を手放したため、徒歩で職場から帰宅する女性=本島内

 4年前、7歳になった息子の誕生日を祝うため、女性(39)=当時=はカットされた小さなケーキを二つ用意し、ろうそくをともした。「何で丸いケーキじゃないの?」。ホールケーキを期待していた息子の問いに「うちは冷蔵庫が小さいでしょ。だから大きいケーキは入らなかったの。それより、ケーキは二つとも食べていいよ」と言葉を濁した。「お金がなくて買えない」とは言えなかった。そのころ、女性は多重債務に陥っていた。
 コールセンターで派遣社員として働き、月収は10万円前後だった。父親の車と自分の車のローン3万~4万円、家賃5万円を払うと、手元にお金はほとんど残らなかった。母子家庭で、養育費はもらっていなかった。「ぜいたくは何一つしていない。それなのに、生活は苦しくなるばかりだった」
 初めて消費者金融を利用したのは電気が止められそうになった時だ。電力会社から届いた黄色い封筒には、滞納分の督促と、滞納分が支払われない場合に送電を停止することが記された文書が入っていた。誰かを頼ろうにも、母親は他界しており、父親は年金暮らしをしていた。弟も父子家庭で生活は厳しく、周りに電気代を借りられる人はいなかった。仕事を休めば給料が減るため、役所に相談することもできなかった。
 当時住んでいたアパートはIH(誘導加熱)コンロで、電気が止まってしまうとお湯さえ沸かすことができない状態になる。「給料が増えないのだから、何とかなるわけじゃない。だけど、何とかしようとして支払いを延ばしているうちに、どんどん期日が近づいていった」。焦るが何もできない日々を過ごし、送電停止の期日を迎えた。その翌日、ネット審査の消費者金融で5万円を借り、滞納分を支払った。
 電気が使えなくなる危機を脱したものの、借金返済のため、生活はより厳しくなった。食事はスーパーの総菜を1人分用意し、息子が食事した残りを女性が食べた。車も手放した。借金は利息分だけを支払い、元金はなかなか減らなかった。生活費が足りなくなると別の消費者金融から借り、負債総額はあっという間に80万円に膨れ上がった。
 それでも、家では明るく振る舞っていた。「子どもはウーマクー(やんちゃ)に育っていた。しょっちゅうかすり傷ができるほど遊んでいたので、楽しくやっているのだと思っていた」と振り返る。
 ところが、3年生になった息子はストレスでチック症状が出た。「学校の先生からも心配されるほどで、とてもショックだった」。思い返せば、息子は家の電気を消すと異常におびえていた。独りで留守番するのを怖がり、家の前の自販機に飲み物を買いに行くだけでも、大声で泣いていた。「知らずに寂しい思いをさせていたのかもしれない」。当時の息子を思い出すと、うつむいて声が小さくなってしまう。(子どもの貧困取材班)
◇◇
 県が初めて調査した県内の子どもの貧困率は29・9%だった。全国の16・3%と比較すると約1・8倍の水準だ。第1部で子どもの貧困の実態を明らかにした連載企画「希望この手に」の第2部は、子どもや家族が貧困に陥っている背景や課題、制度の問題点などを読み解いていく。