「嘉手納近く」に普天間移設 96年返還合意直前 米軍資料に明記


この記事を書いた人 志良堂 仁

 1996年4月12日の米軍普天間飛行場返還合意の発表から1カ月前の同年3月12日、カート・キャンベル米国防次官補代理(当時)がペリー米国防長官(同)に示した説明資料で、普天間飛行場を返還する代わりに「嘉手納基地の近く」に兵舎や貯蔵エリアなどを備えたヘリポートを建設する案が明記されていたことが分かった。当時の橋本龍太郎首相がクリントン米大統領に普天間の返還を持ち掛けたのが2月24日。そのわずか約3週間後には米国防総省内で議論の焦点が普天間の「返還」から「県内移設」にシフトし、さらにその1カ月後、県内での代替ヘリポート建設などを条件に盛り込んだ普天間返還合意を迎えたことになる。

 資料は「普天間飛行場の移設」という題で「極秘」扱い(現在は機密指定解除)。沖縄国際大の山本章子非常勤講師が入手した。山本氏は「当時、米軍が考えていたことは沖縄の負担軽減ではなく、老朽化が始まっていた普天間飛行場を移設し、機能強化することだったことがうかがえる」と指摘した。
 資料は、当時沖縄の基地負担軽減を目的に設置された日米特別行動委員会(SACO)の協議で「普天間は移設の候補施設ではなかった」と説明している。
 一方、「しかし」と下線で強調した上で「橋本首相が2月のクリントン大統領との会談で返還を要求した」「日本は普天間飛行場の返還抜きでのパッケージ案は受け入れない意向だ」などと説明しており、基地問題に関して日本政府が強く迫ったため、米政府が一定程度考慮していたことも示唆している。
 知日派で知られるリチャード・アーミテージ氏(後に国務副長官)も「普天間飛行場は(政治的に)長持ちしない」などと分析していることも紹介している。
 これに付随して統合参謀本部が作成したとみられる資料は、普天間を移設する場合には(1)朝鮮有事の際の国連軍の受け入れ(2)有事の際の自衛隊航空基地の追加的な使用(3)ヘリコプター56機、固定翼機16機を受け入れられる設備の整備-などが必要になるとしている。