収骨60年、国吉さんが引退 体力低下、次世代に継承


社会
この記事を書いた人 新里 哲
自宅の一角に設けた「戦争資料館」に収蔵している人骨がくっついた茶わんを見せる国吉勇さん=5日、那覇市楚辺

 県内に残る旧日本軍の陣地壕を中心にボランティアで遺骨や遺留品を収集していた国吉勇さん(77)=那覇市=が、体力の低下を理由に3月で活動から引退した。国吉さんは約60年間活動しており、拾い上げた遺骨は約3800柱、遺留品は10万点以上に上る。身元が判明した遺骨や遺留品を遺族へ返す活動もしており、県内で遺骨収集する中心人物の一人だった。収集の現場から離れることに「思い残すことはない」と語る国吉さん。今後は次世代に経験を伝えていく考えだ。

 自宅の一角に設けた「戦争資料館」には、火炎放射器に焼かれ、茶わんにくっついた骨や溶けた瓶に埋もれた骨、ノコギリで切断された上腕骨などが展示されている。使い回しの注射器、弾丸で穴が開いた水筒など、国吉さんが収集した遺留品は、どれも沖縄戦の悲惨さを物語っている。
 旧日本軍が使った陣地壕やガマを調査した琉球政府の資料を独自に入手し、場所が判明した壕やガマは全て発掘した。壕やガマから出た遺留品や遺骨は、種類、数を記録し、貴重な資料となっている。
 遺骨収集に尽力した背景にあるのは、幼少期の体験だ。6歳で沖縄戦を体験し、祖母、母、兄、弟、めいの5人を亡くした。小学生のころ、探検ごっこで入った城岳のガマでつまずき、足元を見るとミイラがあった。それらの経験が忘れられず、高校生の時に同級生5、6人で遺骨収集を始めたという。
 長年の収集活動で心に残っているのは、遺骨や遺留品を遺族に返せた時だという。「本土から飛んできてくれた。喜んでいる顔が忘れられない」と話す。名字だけが記され、遺族に返せないままの万年筆や水筒なども多く、引き取ってくれる公的機関を探している。
 16年前から活動を共にし、遺留品を本土の遺族に返す手伝いをしてきた写真家の浜田哲二さん(53)は「国吉さんは大変な作業を60年も続け、収集に人生をささげた方だ。活動を次世代に伝えていきたい」と労をねぎらった。
英文へ→Kuniyoshi retires from gathering remains of war dead after 60 years