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<メディア時評・内部的自由はあるのか>問われるプロの倫理 読者・視聴者向け実践を


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 放送の自由をめぐる議論が続いている。政府による個別番組内容への介入という側面にのみ目が向けられがちであるが、放送現場における自由と自律が守られているかの問題だ。そしてその主体は、日々ニュースを追い、番組を作っている個々のジャーナリストにほかならない。彼/彼女にとって、どれだけ「自由」に仕事ができているかが試されているということだ。

あるいは、よい番組を作りたい、という思いが、どこまできちんと実現しているかということでもある。その時の価値判断の拠(よ)りどころは、スタッフ間で共有する「倫理」にほかならない。

一線の肉声は?

 一義的には放送の自由の脅威は外部の敵、とりわけ公権力からの言論活動への攻撃に違いない。しかしそれと同時に重要なのは、放送局内における「内部的な自由」が確立しているかどうかであって、そもそも現場に「言論の自由」がない中で、ジャーナリズム活動そのものが成立しうるかどうか覚束(おぼつか)ない。実際、今日において、政府の言いがかりに対し、放送局側が十分に抵抗しきれていないではないか、という声が聞こえてくる。とりわけ、一線のジャーナリストの肉声がほとんど表に出てこないのが、今日的特徴だ。
 その声が出せない理由は往々にして、そんな目立ったことをしたら、あとで何を言われるかわからない、といった類いのものではないかと想像される。外部プロダクションの制作スタッフにしてみれば、いつ契約を打ち切られるかわからないのに、そんなリスキーなことはできるはずはない、との答えが返ってきそうである。あるいはそもそも、会社の許可なしに外部に発言することは認められていない、という者も少なくないだろう。意思表明をしづらいのは、そもそも闘う際に拠って立つ行動規範が明確でない、といったことがあるのかもしれない。
 日本では、こうした状況が当たり前で、誰も不思議には思わないわけだ。しかし、現場で働く個々人が自由に発言できないことは、本当に普通のことなのだろうか。あるいは、そうしたことに窮屈さを感じない者が、ジャーナリストとして放送の自由の大切さを語り、自由を守ろうと言うことができるのだろうか。別の言い方をすれば、会社から「政府の圧力に抵抗しましょう」と指示されなければ、問題だと口に出すこともできないような環境で、本当に豊かで面白い番組が作れるのかということにつながる。
 このことは、日本のメディア界においては実は古くて新しい問題であって、放送だけではなく新聞ほか大手のマスメディア共通の課題である。終身雇用が一般的で、いわば社員としての「企業ジャーナリスト」という色合いが強くなりがちであるからだ。あるいは全体としての産業衰退や経営効率化の流れの中で、企業一体となって儲(もう)けに腐心することに、企業内の利害が一致しているということかもしれない。そこには個々人のジャーナリストとしての倫理に基づいて行動するというよりは、会社が定めるルールに則(のっと)り粛々と働く、という姿が垣間見えることになる。
 しかし、だからこそ日本では、企業内ジャーナリストとしての精神的自由の確立がより重要になると言えるだろう。

「独立」「良心条項」

 もちろん、海外においてもこれらが十全に実現しているかと言えば、そうでない場合も少なからずある。それでも歴史的経緯の中で、新聞や放送の働き手が、現状に対する危機感の中で、よりジャーナリストらしく振る舞うための闘いの中で作り上げてきたものが存在する。
 例えばドイツでは戦後、すべての社会的勢力からの「独立」が宣言され、「良心条項」や「情報公開原則」を職業人の権利として定めた編集(者)綱領が作られた。ここでいう公開とは、番組・記事の改変や中止・削除があった場合は、決定者はその理由を説明する義務があるし、当事者はそれを求める開示請求権があるという意味だ。また、ここでいう良心とはまさに、専門的職業人としての職責(職能的責任)であるともいえ、これは日本の放送法が求める「放送人の職責」にも通じるものである。そしてこうした職能的な連帯の中から、企業内ジャーナリストの表現の自由を制度的に保障する制度が確立していった、とされている。同様の思想と実践は、フランスにおいても続いている。
 もちろん日本でも、この種の考え方が全くないわけでもない。明文化されているものとしては、毎日新聞社の「編集綱領」、新聞労連の「新聞人の良心宣言」、民放連の「日本民間放送連盟 報道指針」があるが、どれもいわば宣言としての性格にとどまっているのが実態だ。

雇用者でなく

 記者もディレクターも撮影スタッフも、企業人であることは否定しえない。しかし同時に、あるいはそれ以前に、プロの職業人でありジャーナリストであるという意識をどこまで高めていけるか、その中で日本独特の「編集権」と折り合いを付けながら、内部的自由を実現していくかが問われている。実はこの編集権概念こそが、不自由な言論活動を形作っている主要因であり、内部的自由が存在しないことと裏表の関係にある。しかし、だからこそ経営者が個々の社員に対し、雇用者としてではなくプロのジャーナリストとして向き合うことを求めたい。
 日本の企業ジャーナリストは、会社のルールに縛られ多くの義務を課されているものの、権利と呼べるようなものはほぼ存在しないのが現状だ。個々のジャーナリストが自らの責任で自由に「できること」を増やすことで、外部圧力に屈しない強靭(きょうじん)な言論報道活動が生まれると考えるからだ。
 同時にそれは、会社の危機管理のためではない、読者・視聴者のための倫理の実践にもつながるはずだ。ジャーナリズムの希薄化が言われるからこそ、そしてまた政府圧力が強まる時期に直面しているからなおさら、高度な専門職としてのジャーナリストの「内部的自由」の確立が急がれる。
(山田健太 専修大学教授・言論法)
(第2土曜日掲載)

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◆ドイツやフランスに見られる一般的な良心条項
 いかなる編集者もその編集上の任務を果たす場合に、自らの信念に反して行動することを強制されることがあってはならない。またそのことを拒否することによって、いかなる不利益も生じてはならない。

<用語>編集権
 1948年に日本新聞協会は「新聞編集権の確保に関する声明」を発表、新聞編集のすべてについての最終的な決定権である編集権は、経営管理者である社長(あるいは取締役会)にあり、この権利を侵害する者は社の内外を問わず排除できるとした。