【ハワイ】ハワイで生き抜く88歳 沖縄愛で若者支え


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県系2世のマック与那嶺正行さん

 今年1月、88歳を迎えたマック与那嶺正行氏(ハワイ沖縄連合会西原町人会所属)。去年ハワイ沖縄センターに設置されたエレベーター、そして将来建設予定の資料館への寄付をした。2013年には、身寄りがなく、長年オアフセメタリー(共同墓地)に保管されていたウチナーンチュ1世の故伊敷カツさんの遺灰を引き取り、法要を行った上、お寺の納骨堂に立派に安置したとして、地元の新聞にも取り上げられるなど、ハワイのウチナーンチュコミュニティーに多大な支援をし続けている。ハワイのウチナーンチュコミュニティーへの思いを与那嶺氏に聞いた。

 ―ご家族のことを教えてください。
 「父・与那嶺タロウ(西原町幸地出身)と、母・ウシ(旧姓・沢岻、同幸地出身)の次男として、1928年マウイ島で生まれた。1905年に祖父・与那嶺ジロウが、13年に祖母、叔母、父・タロウ(当時12、13歳)がマウイ島へ移民。パイナップル農場で働く。18年、父は、当時沖縄にいた母・ウシ(当時17、18歳)と結婚、5人の子どもに恵まれた」
 ―幼いころの暮らしはどうでしたか。
 「両親はとにかく働き者だった。学校が休みの日は、私も一日中農場の手伝いをさせられた。農場の仕事はとてもきつく『こんなことを続けるくらいなら死んだほうがマシだ』と思ったくらいだ」
 「全くお酒を飲まない両親だったが、お酒の造り方は知っていた。母は芋を使ってお酒を造り、1ガロン(約3・8リットル)1ドルで売っていた。当時の農場での日給が1ドルだったのに対して、すごくいい商売となった。多くのウチナー女性たちがお酒を造って売り、家計を助けていたそうだ」
 「両親はうちなーぐちでよく『欲しいものはたくさんあっても、本当に必要なものは数少ない』と言っていたのを覚えている」
 ―ご結婚相手も県系人ですね。
 「妻パトシーは、県系2世で旧姓は新垣。結婚相手はウチナーンチュ以外考えられなかった。英語ができず、うちなーぐちを話す両親とコミュニケーションが取れるのは、日系人でもなく、ウチナーンチュである必要があった。夫婦共に教師だった。子どもには恵まれなかったが、めい、おいなど多くの親戚に囲まれた」
 ―今年10月にウチナーンチュ大会がありますね。
 「毎年のように沖縄を訪れているが、ウチナーンチュ大会の参加も楽しみにしている。20年前までは、沖縄へ帰るたび、どこからかうちなーぐちが聞こえてきて、ウチナーンチュらしい顔ぶれが見られ『あー、自分の土地に帰ってきたな』と安心感があった。でも最近は、中国語が飛び交い、ウチナーンチュらしき人になかなか出会うことができなくなってしまった。ちょっと寂しい気もするが、沖縄が発展している証拠なんでしょう」
 ―ハワイのウチナーンチュコミュニティーについて思いを教えてください。
 「1世から始まったハワイ沖縄連合会。4世、5世、6世とつなげていくには、それぞれの村人会、町人会が強く結ばれ、若いウチナーンチュが沖縄を訪問する機会を増やすことが、必要不可欠だ。そのため初めて沖縄を訪れるハワイの若いウチナーンチュたちへ、毎年資金援助を行っている。沖縄訪問を強く後押ししていきたい」
(比嘉具志堅華絵通信員)
英文へ→Mac Yonamine spreads Okinawa love in Hawaii