<「屈辱の日」>「南連」とは? 沖縄差別の源流


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 1952年7月に、沖縄の米政府と調整するため那覇市に設置された那覇日本政府南方連絡事務所(南連)。当時の沖縄における日本政府の機関で領事館に似た位置付けだったが、沖縄在の日本国籍者の保護などが業務で、元々の沖縄県民は対象外だった。サンフランシスコ講和条約で施政権が日本から切り離された沖縄において、政府の現地機関は「日本国籍者」と「琉球住民」を区別して業務に当たっていたことが浮かび上がる。

 南連を管轄する南方連絡事務局の石井通則局長は、南連設置から2年後の54年2月17日の衆院外務委員会で「日本本土から南西諸島に行って、本土に籍を持っている者に関しては保護の機能が与えられていて、不法に逮捕されたり勾留されたりするような場合は米国機関と協議できる」と答弁した。一方で「琉球に戸籍を持つ琉球住民に対する弾圧や不当な取り扱いは、陳情があっても米民政府と交渉する機能が与えられていない」と述べた。
 元沖縄総合事務局職員で、沖縄大・沖国大特別研究員の宮田裕氏は、南連の沖縄政策について「国会答弁は、琉球住民と日本人は別の人格を有するものだと政府が見解を示したものといえる。琉球人は日本人にあらずというもので、沖縄への差別的扱いの源流ではないか」と話している。
 政府は52年4月28日の講和条約発効後、連合国軍総司令部(GHQ)の指示で、琉球諸島と小笠原群島、沖ノ鳥島、南鳥島の地域に関する事務を扱う総理府の付属機関として南方連絡事務局を設置。沖縄に南連を置いた。その後、奄美群島の日本復帰で「特別地域連絡局那覇日本政府南方連絡事務所」に名称を変更、沖縄の日本復帰に伴い沖縄開発庁沖縄総合事務局となった。