サミット成功のため逆算された「容認」


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 沖縄サミット開催が決まった1999年4月、稲嶺恵一知事は米軍普天間飛行場の県内移設に当たって、15年使用期限や軍民共用空港化などの条件を付け、移設受け入れ判断は保留していた。

 これら条件の実現を困難視する政府との交渉は難航していた。その後、政府はサミットが開かれる2000年7月を前に、99年内に沖縄と移設先で合意する必要があるとして、県や名護市への圧力を強めていった。
 サミット開催決定から2カ月後の99年6月25日、クリントン米大統領が「基地問題が未解決な状態で沖縄に行きたくない」と述べ、サミットと移設問題を露骨にリンクさせ、サミット歓迎ムードに冷や水を浴びせたこともあった。
 日本側でもサミット決定後、政府高官や一部の与党有力者に「来年(00年)7月の沖縄サミットを成功させるため、移設先を年内(99年)に確定する」とした筋書きが示された。飛行場の設計などを日米が協議する期間として3~4カ月を想定し、米大統領が出席するサミットまでには県内が「沈静化」していることが望ましいとの理由で、“期限”は逆算されていた。
 稲嶺氏は当初、移設先に関する判断は「サミット後」にしたいとの意向を示していたが、結果的に99年11月22日、移設先を名護市辺野古にすると表明した。続く同年12月27日には岸本建男名護市長も受け入れを表明。政府はこの日の朝、記者会見に臨む岸本氏に小渕恵三首相が「ご苦労をお掛けしますが、よろしくお願いします」と直接電話する念の入れようだった。
 この際、稲嶺、岸本両氏は15年使用期限や基地使用協定締結などの受け入れ条件をなお主張した。政府は岸本氏の受け入れ表明翌日、閣議で辺野古移設を決定した一方、両氏が示した条件を尊重し、米国と協議していく内容を盛り込んだ。
 だが06年に在日米軍再編協議を受けて普天間代替施設をV字形の沿岸案とする政府方針を閣議決定したことに伴い、99年の閣議決定は破棄された。結局、県や名護市が当初示した容認の条件は無視され、使用期限や使用協定などの縛りがなく、軍民共用でもない現行移設計画の原型となっていった。(肩書は当時)