政治

<沖縄基地の虚実15>米軍計画に反対決議 強硬姿勢に窮し再考

1955年、56年当時に現在の米軍キャンプ・シュワブにつながる米軍演習地の接収を巡り、当時の琉球新報が掲載した記事の複写

 1950年代後半に基地建設が行われた名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブを巡り、当時の地元自治体・久志村が「自ら誘致した」とする言説がインターネット上などで見られる。実際は、どのような経過をたどったのだろうか。

 98年に辺野古区が発行した「辺野古誌」によると、55年1月、米軍は久志村に対し「久志岳・辺野古岳一帯の山林野を銃器演習に使用したい」と伝えた。これに地元住民らは敏感に反応した。「軍側の一方的な使用通告に驚いた村では、臨時議会を招集して山依存の高い住民の生活権を守る反対決議」をした。
 当時の地域住民が抱いた不安に関し辺野古誌は、「古くから山を生活の糧にしてきた住民もふってわいたような軍用地接収に騒然」「日々の暮らしにも窮するのでは」などと記録している。
 しかし、米側は水面下で地元との交渉を進め、56年12月28日、久志村長と米側は土地使用契約を締結した。
 辺野古誌は次のように記す。「地主側代表の一人も、軍用地接収にあたって当初、地料や条件が悪く反対したが、地元に於いては強制的なものではなく協力的立場で契約した」「契約にあたっても地元が有利に展開したといわれ、シマの経済転換の進展になると喜んだ」。ここでは地元が軍用地接収に伴う補償を求めたことを説明する。
 しかし、水面下の交渉で米側が強権的に推し進めた内実も辺野古誌は明かしている。「民政府は交渉の中で、当初軍用地反対を続けている字に対して、これ以上反対を続行するならば、部落地域も接収地に線引きして強制立ち退き行使も辞さず、一切の補償も拒否するなどと強硬に勧告してきたことから住民も一様に驚き、有志会では急変した事態に」「再考せねばならなかった」。米軍の脅しで地元が追い込まれた状況が浮かび上がる。
 米側の勧告を受け、辺野古区側では、宜野湾の伊佐浜で住民が強制的に立ち退かされた“苦い事例”も念頭に議論が進んだ。圧倒的権力をかざして軍用地接収を進める米側に対し、条件付きで容認せざるを得なくなった状況がうかがえる。
 辺野古誌では「全地主が賛成したわけでもなく、先祖代々の土地を守るに四原則を支持して軍用地反対に契約を保留する地主もいた」とも述べる。
 沖縄の戦後史に詳しい鳥山淳沖縄国際大教授(現代沖縄政治社会研究)はキャンプ・シュワブ建設の経過に関し、「米軍の計画もなく地元から動き始めたものではない。当時、住民の意見を踏まえて米軍が撤回するような関係ではない。支配関係に関する認識が欠落すると、住民が望んでそうしたとすり替えられてしまう」との見方を示す。
 鳥山教授は「これらもちゃんと見た上で『誘致』と表現した方がいいのか一人一人が考えないといけない」と述べ、時代背景や経過を踏まえ認識を深める必要性を指摘した。(古堅一樹)