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<沖縄基地の虚実14>古里奪われ周辺居住 爆音訴訟判決でも否定


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「古里をなかったことにされるのは怒り心頭だ」と話す字宜野湾郷友会の宮城政一会長=宜野湾市内

 戦後、収容所から解放された宜野湾村の住民が目の当たりにしたのは米軍の飛行場となった故郷の姿だった。村内にあった国指定天然記念物の3千本もの松並木は切り倒され、県内最大級の馬場も消えた。中部地区の農作物や海産物が集まり、にぎわいを見せていた中心街の面影はうせた。

 当時の様子を字宜野湾郷友会誌「ぎのわん」では次のように振り返る。「われわれの故郷は見る影もなく破壊されつくされていた」
 戦後、米軍は旧宜野湾村の大部分を軍用地区に指定し、住民の居住を制限した。故郷に帰れず、現在の宜野湾区に住むようになった住民は米軍施設の活動に支障を与えない程度で許されていた耕作を始めた。しかし、1952年に米軍は飛行場再使用の通達を出し、軍用地内の墓の撤去を強行。その後、飛行場全域をフェンスで囲った。軍施設の拡張・強化も進められ、わずかに残っていた村の面影も姿を消した。
 字宜野湾郷友会は3月末、戦前の宜野湾村の様子を知ることができるイメージムービーを作成した。インターネット上で「普天間飛行場は何もないところにできた」「住民は自ら危険な基地に接近した」という言説があることを危惧したからだ。映像では普天間飛行場内に集落があったことが確認できる。郷友会の宮城政一会長は「収容されているときに米軍に古里を奪われ、帰ることができないから仕方なく近くに住んだ。古里がなかったことにされるのは怒り心頭だ」と語る。宮城さんの祖父の家は、現在の滑走路近くにあった。
 イメージムービーのお披露目会に出席した郷友会会員の玉那覇祐正(すけまさ)さん(83)は生まれも育ちも宜野湾だ。村の情景を今でも思い出すことができ、道端に咲いていた花を懐かしむ。「『何もなかった』というのは政治的なものなのか。うそも100回言えば本当になると思っているのではないか」といぶかしがる。
 普天間爆音訴訟では国側が「普天間の住民は自ら基地の危険に接近した」と主張した。しかし、2010年の同訴訟二審判決で福岡高裁那覇支部は「本島中部地域では騒音の影響を受けない地域は限られている。住民は地縁などの理由でやむを得ず周辺に転居したもので非難されるべき事情は認められない」と「危険への接近論」を否定している。
 沖縄国際大学の佐藤学教授は「沖縄の歴史を知らない人が増えているから、こうした言説が浸透するのだろう。歴史修正は記憶が途絶えたときに起きる。
 戦後、宜野湾は都市化し、人口が増加した。民間地である基地周辺に住まないように法規制することも不可能だ。土地を奪って造った飛行場の成り立ち自体がおかしい」と批判した。
(安富智希)

字宜野湾の集落の様子(字宜野湾郷友会作成「戦前集落イメージムービー」より)