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<メディア時評・盗聴法とヘイト法>「表現の自由」転換か バランス欠く公権力放置


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 1日に閉会したばかりの第190回国会で、戦後の表現の自由の考え方を大きく変える可能性がある法律が二つ、ほぼ同時に成立した。刑訴法等改正一括法案の一つであった改正通信傍受法(盗聴法)と、反ヘイトスピーチ法(本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取り組みの推進に関する法律)だ。

日本モデル変更か

 日本の表現の自由モデルの特徴として挙げられるのが絶対性である。それは、公益に反する場合などの例外を一切設けていないことと、検閲と盗聴を明示的に禁止していることにある。なぜ先の法律が日本モデルを大きく変えるのかと言えば、ヘイト法は憲法保障の例外規定を作り事前規制を認めることになりかねないし、盗聴法は通信の秘密を侵害することに直結するからだ(2013年10月、15年6月本欄参照)。
 そもそも、国家の基本構造を破壊するような表現行為を社会に対する「暴力」と認定して、当該社会から排除するという考え方はむしろ一般的ですらある。共産主義国家における共産党批判は国家転覆の暴力行為であろうし、イスラム国家における預言者ムハンマドへの侮辱行為も同様に社会から完全に排除される対象だ。同様に、ドイツを代表例にナチのような人種差別言動は、民主主義社会を破壊する行為として思想も含めて一切認められない国が少なからず存在する。これらに対し日本は、すべての表現行為はいったん表現の自由の土俵に上げた上で、事後的に司法によって処罰をする国だ。
 今回施行されたヘイト法は、理念法と呼ばれているように、15年前にできた人権啓発法同様に、国や地方自治体の実効的な対応を求めたにすぎず、罰則を伴う規制を含んでいない。しかしその延長線上では、デモや集会を事前規制し、人種等の差別表現を罰則付きで取り締まろうという考え方につながっている。しかしこれは、特定の表現行為を事前に抑制するものにほかならず、しかもその判断を現場の警察や行政に委ねることになるだろう。
 日本では多くの国同様、民主主義社会の維持という同じゴールを目指している。その際の「工夫」のしどころとして、特定表現を憲法の保障の対象から外して社会から排除するという手法ではなく、すべての表現を発表段階ではいったん認めるという選択をしてきた。それは紛れもなく、戦前・戦中の「例外と原則の逆転」によって、言論封殺が日常的に行われる国家体制を作ってしまった反省からである。
 したがって、ドイツ型の人種差別思想・表現の全面禁止は日本にとっても社会的選択の一つではあるが、これまで過去の教訓からあえて選択してこなかったということである。

ここ10年の窒息感

 ただし、それとは別に、目の前のヘイト状況を止めるため、司法が緊急避難的な接近禁止命令を発したり、対象者の集住地区近辺での集会やデモに対しては、流通規制の一形態として一定の制限的措置(コースの変更等)を取ることが始まっている。しかし根本的な解決のためには、国や自治体の在日韓国・朝鮮人に対する公的差別を止めることこそが王道であって、むしろこれらに対しては直ちに法的措置を取るべきだろう。
 こうした公権力のありようや政治家の差別言動は放置されたままで、市民的自由にのみ制約的になる社会はバランスに欠ける。しかも今日においてもすでに、日本では警察権限が強くデモの自由が幅広く制限される傾向にある。また過去には、天皇批判色がある映画の上映に際し、公民館等の施設が貸し出しを拒否して問題になっている。大衆表現と呼ばれるデモや集会の自由は、これまでも道路交通法や公安条例等で幅広く、しかも恣意(しい)的な運用を伴って規制されてきた経緯がある(14年9月本欄参照)。
 そうした中でさらに警察を含む行政機関に、表現内容を事前にチェックし、それを理由として許可するか否かを判断する権限を与えることは、現在広がる公民館の政治性を理由とした貸し出し制限を助長する恐れさえあると言えるだろう。もう一つの大衆表現のカテゴリーであるビラやチラシも00年代に入ってから、特定の政治的内容のものを狙い撃ちする形で、配布者が逮捕・有罪になっている事例が続いている。
 いわば公共空間における表現活動は近年、極めて息苦しさを増している。例えば美術の世界でも、愛知県美術館に展示された作品に対する警察の撤去指導、東京都現代美術館における作品撤去または改編要請が続いた。図書館における「はだしのゲン」撤去や、東京都内の書店における民主主義フェアの中止事件もまだ記憶に新しいところである。美術や文学と表現の自由の関係は古くて新しい問題ともいえるが、少なくともこれらを含めた表現の自由の窒息感が、「報道圧力」問題ともどもここ10年急速に強まっていることを無視はしえない。

「同床異夢」

 そうした中でいま、テロの脅威やヘイトスピーチの横行という、極めてわかりやすくなおかつ何らかの社会的対応が必要な事態を前に、いわば当然のように表現の自由の基本原則がなし崩しで変更されるというのは、日本社会の将来に大きな禍根を残すことになる。しかも、いま日本の表現の自由は崖っぷちにあるという危機感が社会の中ではきわめて希薄なだけに、ますます心配だ。
 これら目の前の住民の不安を解消したいという気持ちは、法案を提出した政府や与党も、そして法の成立を歓迎する人たちも同じように見える。しかしそのズレはことのほか大きく、実は全く違う方向を目指しているのであって、まさに「同床異夢」と言えはしえないか。
 これは、元海兵隊員殺人事件の怒りと悲しみを前に、沖縄県内では基地撤去、海兵隊全面撤退、地位協定の抜本改定が民意となりつつある中で、日米政府が打ち出した対応策が、ことごとく問題を矮小(わいしょう)化するさまと全く同じ構造を示している。あるいは政府の意図を東京メディアが見抜けない中、沖縄県民あるいは地元メディアがいち早くことの本質をつかんでいるということだ。
(山田健太 専修大学教授・言論法)
(第2土曜日掲載)