ひめゆり学徒「相思樹の歌」 武冨さん“兄の歌”継承に感謝


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「相思樹の歌」を作曲した兄・東風平恵位さんとの思い出や歌い継がれていることへの感謝を語る武冨文子さん=沖縄市照屋

 ひめゆり学徒たちが戦場で歌い、励まし合った「相思樹の歌」(太田博作詞)を作曲した東風平恵位さんの妹・武冨文子さん(90)=沖縄市=はこのほど、「この歌を今でも多くの人が歌っていることに感謝している」と語り、思い出を振り返った。

 東風平さんは、沖縄師範学校女子部の音楽教師としてひめゆり学徒たちを引率し、戦争で命を落とした。武冨さんが「相思樹の歌」を知ったのは、1975年ごろ、東京音楽学校(現東京学芸大学)での東風平さんの同級生が、糸満市のひめゆりの塔で披露したときだ。「こんな歌があったの、とびっくりで涙が止まらなかった」と思い返す。2004年には、もう1人の同級生森山俊雄さんが東風平さんの鎮魂のために沖縄を訪れた。森山さんはその数年後に亡くなった。武冨さんは都合が合わず対面できなかったが「兄の同級生が戦後59年もたって来てくれたことに胸がいっぱいになった」と話す。

 生まれ島・宮古島での兄との思い出は、自分の分のバナナを、こっそり武冨さんのために、とっておいてくれたこと。「本当に心の優しい兄だった」と語る。

 戦時中、台湾の高雄の海軍航空敞で働いていた武冨さんの元には、兄から頻繁に手紙や写真などが送られてきた。最後の手紙には「空襲で、命の次に大切な音楽の本も丸焼けになったが、命は元気です」と書かれていたという。

 「兄はどこかで生きている」と信じていたが、戦後台湾から引き揚げ、出身の宮古島の桟橋を見たとき「なぜだか涙が出てきた」。直後知り合いから兄の死を告げられた。

 「昨日のことのように思い出す。71年もたったと思えない。兄が生きていたらと何度も思った」と声を震わせた。

 22日、那覇市で開かれたコンサートで「相思樹の歌」が披露されるなど、東風平さんの思いの詰まった曲は、今でも多くの人に歌い継がれている。武冨さんは「ありがたいという気持ちでいっぱいだ」と語った。