<未来に伝える沖縄戦>砲弾の破片、肉えぐる 城間恒人さん(76)〈上〉


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城間恒人さん(右)の戦争体験を真剣に聞く石川高3年の外間葉月さん(中央)と座安希知さん=17日、琉球新報中部支社

 12人きょうだいの11番目、九男として生まれた城間恒人さん(76)は沖縄戦当時、大里村(現南城市)大城で暮らしていました。兄や姉たちは日本軍や看護婦として召集され、茂みやサトウキビ畑に身を潜め、米軍から逃げる日々が続きました。当時、城間さんは5歳でした。戦争の記録を残そうと、城間さんは高校生の時、母親に話を聞き自身の戦争体験を思い起こしました。県立石川高校3年の外間葉月さん(18)と座安希知さん(18)が、琉球新報中部支社で城間さんの戦争体験と、城間さんが母親から聞いた話に耳を傾けました。

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 〈米軍の空爆や砲撃で家を追われた城間さんは、家族や親戚の計8人で避難先を探し歩きました。1945年5月ごろ、戦況が激しさを増していました〉

 自宅のあった大里村から、蒸し暑い小雨が降る夜、父と母、兄、姉と妹、祖母、いとこの姉の8人で大里村から親戚のいる玉城村(現南城市)糸数へ向かって歩いていました。しかし、米軍の砲撃や空襲を受けたのか親戚の家はなく、辺りは焼け野原になっていたのです。
 夜通し歩き、朝方にやっと壕に着きましたが、既に満杯で入れませんでした。仕方なく別の壕へ行こうとすると、祖母が「年寄りはこれ以上は足手まといだ。どうせ死ぬなら、生まれ育った大里村で死にたい」と言い残し、1人、歩いて来た道を戻って行くのです。祖母が大好きだった姉の末子は「別れるのは嫌だ」と泣き叫び、祖母を引き留め「一緒に逃げよう」と説得しました。しかし、祖母の決意は固くどうすることもできませんでした。それが、祖母との最後の別れになったのです。
 私たち家族は、近くの墓に隠れようと試みました。ふと周囲の様子を確認すると、前方に広がる海に米軍艦がひしめき、艦砲を撃ち込んでいたのが見えました。砲弾が落とされることや、火炎放射器で攻撃されることを考えると、安心してそこにとどまることはできませんでした。

※続きは7月23日付紙面をご覧ください。