絆つないだ海銀SC「22」 故・浜元さん、仲間見守る


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故浜元盛太さんのユニホームとともに、天皇杯準優勝の集合写真に写る海銀SCのメンバー=14日、南風原町の黄金森公園陸上競技場

 14日に南風原町の黄金森公園陸上競技場であった天皇杯全日本サッカー選手権大会県予選の決勝。FC琉球と対戦した海邦銀行サッカークラブ(海銀SC)のベンチに掛けられた「22」のユニホームが、仲間を鼓舞するように風になびいていた。6月17日、悪性リンパ腫により29歳で亡くなったFW浜元盛太さん=北谷町出身=の背番号。妻のゆりあさん(30)が抱く「もっとサッカーをさせたかった」思いと、今もなお浜元さんと心を一つにするメンバーの絆の象徴が、仲間の活躍を見守っている。

 小学校からサッカー少年だった浜元さんは桑江中、普天間高校、沖国大と進学し、国体メンバーにも選ばれる実力者だった。海邦銀行に就職し、海銀SCに入団。「左脚から繰り出す豪快なシュートがチームに勢いを与えた」と仲間幹監督も高く評価していた。行員としてチームの会計も担当し、時にスポンサー側の立場で厳しい指摘もできる運営の要でもあった。

 ピッチを離れれば柔和な笑顔が印象的で「テキトーな感じだけどしっかりしてて、そこにいるだけで笑いが生まれる存在」。そう話すのは、入団前から親交のある吉嶺文啓さん(27)で、2014年から主将を引き継いだ。吉嶺さんにとって頼りになる先輩だった。

 浜元さんが腰の痛みや体調不良を訴えていた昨冬、吉嶺さんは「俺、がんやっさあ」と電話で告白された。「でも、薬で治すから」。気丈な声に希望を感じ、チーム全員で完治することを信じた。

 14年6月に長男盛丞(せいすけ)ちゃん(2)が生まれ、長女・こゆりちゃん(0)の出産を楽しみにしていた浜元さん夫婦は治療方法を求め、県外の医療機関も訪ねた。治療を続けた今年4月にはこゆりちゃんの出産に立ち会い、幸せをかみしめることができた。ただ、病状は思わしくなく、5月に見舞った吉嶺さんには「骨髄移植をしないと長くない」と痩せた体で伝えていた。

 チームに訃報が届いたのは九州リーグで宮崎に遠征する直前の6月17日。悲しみに暮れるメンバーは得点時にユニホームにつけた喪章を天に掲げ、その名を呼んだ。生前の浜元さんから託された天皇杯県予選優勝は果たせなかったが、表彰式では家族ぐるみで付き合うチームメートの吉元雅人さん(37)が「22」を着て、首から下げた銀のメダルをユニホームにこすりつけて報告した。集合写真では「22」が中心だ。

 常に浜元さんを慕い続ける海銀SCメンバーに、ゆりあさんは感謝している。「主人は天皇杯の試合前にわが子と手をつないでピッチに上がるのが夢だった。かなわなかったが、2人が大きくなった時『お父さんはサッカーが上手だったんだよ』と伝えたい」と語る。

 海銀SCでは、浜元盛太さんが背負った「22」はしばらくは欠番となる。仮に、長男の盛丞ちゃんがサッカー少年として成長し、海銀SCに入団した時には、父と同じ番号に袖を通してもらいたい。吉嶺さんらメンバーは、浜元さんへの感謝の思いとともにそんな将来を描いている。
(嘉陽拓也)