沖縄を親身に考えた人 下河辺淳氏死去 「メモ」研究の江上能義氏に聞く


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    下河辺淳さん

 下河辺淳氏は国土事務次官を務め、戦後の全国総合開発計画(全総)の中心人物だった。沖縄では1995年の少女暴行事件の当時、対立していた政府と沖縄県との橋渡しをしたことで知られる。下河辺氏がその役を担ったのは全総に沖縄をどう組み込むのかを思慮し、復帰の3年前から沖縄で関係者と関係を築いていたことが理由にあった。

 2003年に私は東京に来て、関係者から下河辺氏の沖縄関係資料を預かった。吉元政矩副知事(当時)とのやりとりを残したメモは見たことがない内容だった。大田昌秀県政下、米軍用地の代理署名訴訟を巡る最高裁判決で県が敗訴になり、国と県は手を結んだ。下河辺氏はずいぶん前から政府と県の和解交渉を続けていた。

 下河辺氏は米軍普天間飛行場の返還が県内移設条件付きとなったことに苦慮していたと明かし、海上ヘリポート案に一生懸命だった。同案は名護市民投票で反対多数でつぶれた。下河辺氏は、小さなヘリポートで解決していれば、こんな大きな辺野古のV字案にならずに解決したかもしれない、と悔しそうだった。

 下河辺氏は、沖縄にはもっと自治を与えるべきだとの立場だった。一方、日米安保のために沖縄に基地があることはやむを得ないとしたが、沖縄の基地整理縮小にはもっと思い切った努力をするべきだという考えも持っていた。

 最も印象に残っているのは、橋本龍太郎政権下で梶山静六官房長官に大田県政との調停役を頼まれた際、政府の補佐官になってくれと言われたが断ったという話だ。沖縄の立場で調整役をしないと、沖縄の人たちから信用されないと思っていた。下河辺氏だったからこそ吉元氏も話をしたのだろう。沖縄のことを親身になって考えてきた数少ない本土の人間が亡くなったことに沈痛な思いだ。現在の政府と沖縄県との対立関係を考えても非常に残念に思う。
(早大大学院教授・政治学)