社会
在沖米軍基地の県外移設を巡る議論

<脱植民地主義と「県外移設」論>中 知念ウシ

〈「本土の人たちと同程度」〉犠牲前提の優位論 「国民の責任可能性」問わず


東村高江のN1ゲート付近で機動隊と対峙する市民ら。全国から約500人の機動隊員が派遣されている=8月24日

【2】移設不可能性

 仲里さんは沖縄〈民族〉として多民族国家日本の国民に包摂され、「われわれ」という主体意識を持っているそうだ。その上で、「件(くだん)の『痛みを他者に押し付けることはできない』とした『他者』とは、そんな〈国民〉の内部で包摂されつつ排除されているひとびと=内的他者が意識されているし、何より、ここでの『できない』の力点は『痛み』の『移設』/交換不可能性として把握されていることである」と言う。

 しかし、この文章は矛盾している。「痛みを押し付けることはできない」が「移設も交換も不可能」という意味ならば、内的他者を意識しようがしまいが関係ないことになるだろう。「押し付ける」ことはそもそも「不可能」だと言うのだから。「内的他者の存在を意識」することによって「痛みを他者に押し付けることはできない」と判断することが倫理的意味を持つためには、「押し付けることもできる」、「移設可能性」が前提でなくてはならない。やろうと思えばできるがしない、という選択に価値が出てくるのだ。

 仲里さんは県外移設/基地引き取り論を「8割の安保支持を前提とした負担平等論」と言い換え、フランツ・ファノンの「橋をわがものとする」「筋肉と頭脳の思想」からするとデウス・エクスマキーナ(救いの神)でしかないと否定する(6月4日)。そしてそう結論するために、またしても、「日本人が自らの政治選択の責任を取る」、「差別や植民地主義をやめる」という県外移設/基地引き取り論の趣旨を聞き取ることを拒否する。前回の私の指摘を聞き流し、意図的にシランフーナー(知らないふり)しているのだ。

【3】本土の人たちと同程度

 また自らは、「8割の安保支持」による日本社会の沖縄への基地押し付けという「国民の責任可能性」(仲里効、6月3日)を問おうとしない。逆にそれを正面から問い、差別者・植民者という位置から脱し、日米安保問題を当事者として解決していこうとするのが、日本人による引き取り運動である。彼・彼女らは、それによって自らの「主体性」と「尊厳」を回復しようとする。仲里さんは、そのような日本人自身の脱植民地主義を懸けた「筋肉と頭脳」の取り組みも認めようとしない。

「負担平等」の意味

 そんな仲里さんが「筋肉と頭脳の思想」を教えるものとして評価するのが、「辺野古や高江の海や山に座る市民的不服従と非暴力直接行動」、犠牲者への「服喪において降り積もる遺恨を祓(はら)う〈反暴力の行為〉」である(普天間基地前で住民が粘り強く抗議活動を続ける宜野湾は抜けている)。そして、次の結論に達する。「『せめて』であれ『本土の人たちと同程度』になる必要などない」(6月4日)。

 この意味は何か。これは私が「負担平等」について、「本土の人たちも私たち同様苦しめ」という意味ではないと強調する文脈で、「せめて本土の人たちと同程度に私たちも基地から解放されたい」という要求だと説明した一節(5月20日)から、仲里さんが切り取ったものだ。仲里さんはその「基地からの解放」が不要だと言っているのか。「本土の人と同程度」の解放ならいらないと。

 私が意味したのは、仲里さん風に言えば、私たちが日本国家に「包摂」された上で、「日米両国から『死者』として位置づけられ」(1月22日)「排除」されるという差別、すなわち「命の二重基準」(上原美智子『うるまネシア』21号)をやめろ、ということだ。

 それが、なぜ、「必要などない」ことになるのか。それは、仲里さんが、他のことで「用が足りている」「間に合っている」と思っているからなのではないか。では、それは何か。文脈からすると、仲里さんがその結論の直前に書いていることとしか考えられない。すなわち、「死者を身ごもる」「市民的不服従と非暴力直接行動」の反基地運動である。これで「用が足り間に合っている」ため、「差別するな」と日本人に対峙(たいじ)すること(これにも「筋肉と頭脳」を要する)、差別や基地から解放されることが「必要」ないと言っているように見える。

沖縄人の優越性?

 「『せめて』であれ『本土の人たちと同程度』になる必要などない」という言い方には、もう一つのニュアンスがあるように思われる。前述のように、仲里さんは私の文章から「私たちも軍事基地から解放されたい」という部分を切り落とし、「『本土の人たちと同程度』になる」という表現に変えた。その上で「その必要などない」と言う。

 通常「あの人たちと同程度になりたくない」というのは「人間のレベル」の問題として対象より上に立とうとする言い方だ。仲里さんは、そんな意味で、「私たち」は「本土の人たち」より優っていると言いたいのか。何をもってそうなのか。これも文脈からすれば、「『死者を身ごもる』『市民的不服従と非暴力直接行動』の反基地運動」をしているから、となるだろう。

 こうして見ると、仲里さんは沖縄の反基地運動に何か特殊な、尋常ではない意味を持たせているのではないかと思えてくる。反基地運動があることで、沖縄〈民族〉の「本土の人たち」を超える優越性が担保されるから、日本人に差別するなと迫ったり、対等な人間関係になろうとしたりする必要がなくなる、とでも言うかのように。

 しかし、沖縄人の優越性の根拠が反基地運動であるならば、優位しているためには反基地運動、ひいては基地の存在が前提、必要とされることにならないか。そうやって、今後も犠牲者を「身ごもり」続けることにならないか。

(ちにん・うしぃ むぬかちゃー=ライター)

(2016年9月15日 琉球新報掲載)

 昨年8月に「『県外移設』という問い」(5回)を掲載して以後、本欄で県外移設論を取り上げてきました。8月の連載を受け11月、高橋哲哉氏が応答し、これに今年1月、仲里効氏が論考を寄せて、論争となりました。その後、議論のステージ形成を目指して、論者を広げながら展開しています。