<再論・沖縄戦後思想史から問う「県外移設」論>中 仲里効


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安保を逆説的に補強/「痛み」は移設、配分できない

沖縄戦で命を落とした朝鮮半島出身者を追悼する「恨之碑」の前で説明を聞く韓国人の団体=2011年、読谷村瀬名波

 私の前には琉球新報社と沖縄テレビが共同で実施した普天間基地の辺野古移設を問う「世論調査」の結果を報じた昨年6月2日の本紙記事が置かれている。それによると、普天間基地の辺野古「移設」反対が83%にのぼり、解決策については国外移設31・4%、無条件閉鎖・撤去29・8%、県外移設21・8%の順となっている。

 この調査結果からは沖縄民衆の社会化された「一般意思」を読み取ることができる。注意したいのは、重層的に決定されていることである。県外移設/基地引き取り論はこうして重層決定されている「一般意思」を一極に選択し強化することを意味する。問題なのは、その選択と強化によって何が封印され排除されるのかである。

アメリカの責任

 知念ウシさんは日本と日本人の責任を執拗(しつよう)に問い、告発し、基地引き取りによる負担平等を求めるが、アメリカの責任を問うことはない。そもそも世界中に軍事基地網を張り巡らす基地帝国・アメリカの覇権は、植民地主義と人種主義を基礎にしているのではなかったか。日米安保条約はアメリカの植民地主義と人種主義的に自発的に隷従してきた日本国家(国民の責任可能性も含む)との共犯によって成立しているはずだ。

 〈軍事植民地・沖縄〉はその共犯のメルティング・ポットである。植民地主義と人種主義は性暴力に凝縮されることを沖縄の社会的身体は凌辱(りょうじょく)され続けた経験の深層において知りぬいている。だとすると、知念さんが何を語ったかではなく、何を語らなかったかが問われなければならない。「植民地主義の構造」を日本の〈一者性〉へと還元する認識論的布置からは、フィリピンやグアムやハワイへの移設に反対しても、アジア・太平洋を横断し沖縄を結び目にしたアメリカの軍事ヘゲモニーの禍々(まがまが)しさを前景化することはない。

キアスムの視点

 その機制は「他者」認識と「痛み」の理解においてもみられる。私が基地を引き取れとはなかなか言えないのは「沖縄の優しさや弱さ」にあるのではなく歴史体験からくるもので、「沖縄戦の死者たちの声を聴き取るなら、痛みを他者に押し付けることはできない」とした発言を取り上げ、在日米軍基地を成立させている日本(本土)は「当事者であり、『他者』ではない」として、「これまで起こった基地負担と被害という『痛み』とは、本来負担する責任のある日本(本土)から『日々沖縄に移設』(玉城福子)されたものだ」とする。

 ここでの「痛み」のエコノミーに言及する前に、私の「自―他」認識は混乱して使い分けられている、どっちなのかはっきりせよ、という問いに応えなければならない。迂回(うかい)することになるが〈国民〉と〈民族〉のキアスム、すなわち、交差配置という視点から論じてみたい。

 こういうことである。沖縄の「自―他」認識や沖縄の〈われわれ〉(一人称複数)は、〈国民〉としては日本との同一性に包摂されているが、〈民族〉としてはかならずしも同一性に収まるわけではない。在日朝鮮人や在日沖縄人やアイヌ、そして移民、難民など多くの〈在日〉たちの「自―他」もまた、〈国民〉と〈民族〉(/階級、セクシュアリティ)とのキアスムを生きている。日本の単一民族性が虚構であり神話であることは明らかである。

 件(くだん)の「痛みを他者に押し付けることはできない」とした「他者」とは、そんな〈国民〉の内部で包摂されつつ排除されているひとびと=内的他者が意識されているし、何よりもここでの「できない」の力点は「痛み」の「移設」/交換不可能性として把握されていることである。

 さらに言うと、私の論旨は先に見たとおり「痛み」は沖縄戦とその死者との関係で明示されている。それだけではない、同化主義がいかにアジアへ抑圧移譲されるのかや私たち沖縄の戦後世代の「吃音(きつおん)」にまで木霊させた。つまり植民地主義の構造において把握されていたはずである。

「痛み」の定義

 だが、知念さんはそうした「傷」や「痛み」の多義性と「移設」/交換不可能性に目を向けず、私の文の「沖縄戦」の“イクサ”を落とし「沖縄の死者」とする。この後の立論からみても単なる引用ミスとは思えない。知念さんは言う。「『痛み』とは何か。仲里さんは定義していないが、文脈からは『日米安保条約を根拠とする在日米軍基地によって沖縄が被っている負担とそれに伴う被害』と解釈できるだろう」と。「定義してない」のではない、すでに定義されている。

 お分かりいただけるだろうか。知念さんは「痛み」を自説に囲い込み、「本来負担する責任のある日本(本土)」から《沖縄に移設》されたものであるとして、基地移設論のアナロジーでなぞる。「本来」という起源には、やはりアメリカの覇権は隠されたままである。戦争器官によって凌辱(りょうじょく)された「傷」や「痛み」は移設したり配分したりすることなどできない。ただそれそのものの根に下降することによってしか解くことはできない。そのことを身体言語にしない限り「せめて本土の人たちと同程度に私たちも軍事基地から解放されたい」という要求は、「安保繁栄論」や「安保基軸論」を逆説的に補強してしまうことにしかならないだろう。
(映像批評家)