<再論・沖縄戦後思想史から問う「県外移設」論>下 仲里効


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修辞的運動を越えて/脱植民地化の力を内燃に

1995年10月21日の県民総決起大会で発言する高校生代表の仲村清子さん=宜野湾海浜公園

 知念ウシさんが仲里論考には「女性たちの姿が感じとれない」と指摘し、1995年以降の重層的な潮流に女性たちの役割を挙げていたことについて考えてみたい。たしかに少女レイプ事件にいち早く反応し、時代の流れを創出したのは北京の女性会議に参加した女性たちをはじめ沖縄内の女性団体の合力であった。

 そしてそのなかから「基地と軍隊を許さない行動する女たちの会」が生まれた。「ジャンヌの会」や「カマドゥー小たちの集い」もそうしたウチナーウナイの合力のひとつであることは間違いない。

 そのことを確認したうえで、知念さんが基地引き取り運動のベースラインに置く「カマドゥー小と名護の女性」たちが1998年の東京行動で「普天間基地大セール」や「基地コ~ミソ~レ~」と呼びかけたこと、つまり基地を「売る」ことを呼びかけたこと、そして「日本人よ! 今こそ、沖縄の基地を引き取れ」と主張した意味について問い返してみたい。

物象化

 私はこう考える。すなわち普天間基地の模型を入れたタライを頭にのせ「基地コ~ミソ~レ~」とか「基地を引き取れ」と呼びかける主張は、修辞的運動としてみれば無意識をゆさぶるものがあった。たとえば「せんするー節」や「職業口説」など、沖縄内部の言語や職業の違いをユーモアとウイットを利かせて詠いあげたセンスに重なるものがあるとみてよい。

 だが、2つの問題点を指摘することができる。ひとつは修辞的運動とそれを現実の実践に移し換えることとは次元が違うこと、いまひとつは基地を「売る」とか「引き取る」ということのうちには、基地と軍隊をモノ化(物象化)するカテゴリーの政治が働いていることである。暴力装置としての基地と軍隊は「売る-買う」/「引き取れ-引き取る」という次元で語れるものだろうか。ない。この〈修辞-物象化〉を成り立たせているのは、当人たちはただちに否定するだろうが、能動化されたモラルニヒリズムである。能動化されたモラルニヒリズムは凌辱(りょうじょく)された女性たちを2度凌辱することになりはしないか。

独立学会趣意書

 もうひとつ見てみよう。目取真俊さんが『神奈川大学評論』(82号)で、「県外移設論」に「戦争体験の風化」と「戦争への絶対的否定感」のなさを指摘した発言を私が紹介した個所を取り上げ、前後の文脈からしてその批判を独立論者に特定しているところである。そうだろうか? ちなみに「琉球民族独立総合研究学会」公式ホームページを開いてみると、「発起人」のなかに「知念ウシ」の名があり、「設立趣意書」には「琉球は日本から独立し、全ての軍事基地を撤去し」とはっきりと謳(うた)われている。学会員のなかには県外移設を共有する人がいても不思議ではないだろうが、「発起人」に名を連ね、会の基本的な立場を表明する「設立趣意書」からして、「目取真さんが批判する県外移設論は独立論者が言っているものなのだ」と他人事(ひとごと)のようにシランフーナーしてよいものだろうか。

 どうやら知念さんは「独立論者たちの県外移設論」と「カマドゥー小たちの県外移設論」は違うもので、「カマドゥー小」たちのそれに目取真さんの批判は当たらないと言いたいようだ。そうではないだろう。「戦争体験の風化」と「戦争への絶対的な否定感」の不在は、沖縄戦を原点にした戦後沖縄の社会化された意識を、修辞化し物象化する県外移設/引き取り論の臨界を見定めたことにかかわっている、と私は思う。

市民の筋肉と頭脳

 95年10月、あの日、あの広場の密度のなかで、密度とともに聴き取った「静かな沖縄を返して下さい。軍隊のない、悲劇のない平和な島を返して下さい」と発した高校生のメッセージは、「売る-買う」/「引き取れ-引き取る」身ぶりを突き抜けて、暴力装置としての基地と軍隊にまっすぐ伸びている。

 思い起こしてみたい。植民地主義の病根をラディカルにえぐり、解放の地図を描いたフランツ・ファノンの「橋をわがものとする思想」を。「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい(…)橋は空から降って湧くものであってはならない。社会の全景にデウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕によって押しつけられるものであってはならない。そうではなくて、市民の筋肉と頭脳とから生れるべきものだ。(…)市民は橋をわがものにせねばならない」。いつも私たちの側にあった、それ。

 この脱植民地化の力を内燃にして「橋をわがものとする」思想は、基地の引き取りを求める構えとは根本的に異なる。8割の安保支持を前提にした負担平等論は「デウス・エクス・マキーナ」にはなるにしても、「筋肉と頭脳」にはならないし、なるはずもない。

 辺野古や高江の海や山に座る市民的不服従と非暴力直接行動、そして凌辱された死者への服喪において降り積もる遺恨を祓(はら)う〈反暴力〉の行為が私たちに教えてくれるのは、「筋肉と頭脳」の思想である、と間違いなく言える。そのとき、「日本人よ」という声を割って「沖縄よ」と呼びかける内発する声は〈死者を身ごもる〉だろう。「せめて」であれ、「本土の人たちと同程度」になる必要などない。
(映像批評家)