連綿と続く沖縄蔑視 「人類館」、沖縄戦、日本復帰後も


この記事を書いた人 Avatar photo 与那嶺 明彦
沖縄差別の史実を基に作られた演劇「人類館」=2008年、那覇市

 米軍北部訓練場(沖縄県東村・国頭村)のヘリパッド建設に反対する市民らに対し、大阪府警の機動隊員2人が「土人」「シナ人」などと発言した。沖縄に対する偏見や蔑視、差別が表面化したのは1903年の「人類館事件」から沖縄戦、近年の日米両政府官僚らの問題発言まで、連綿と続いている。加えて今回はネット上の言説を反映し、一般の層にも偏見が根強く残っていることが表れたと識者は指摘している。

 「人類館事件」は1903年、大阪で開かれた内国勧業博覧会で「琉球人」やアイヌ、「生蕃」(台湾先住民)らが「学術人類館」内に民族衣装姿で「展示」された。当時の琉球新報は主筆の太田朝敷らが、社説でアイヌや台湾先住民と同列視されたことなどを問題視し、抗議した。沖縄差別の象徴的事件であるとともに、同化政策の中で危うい立場を強いられた沖縄側の差別的視線も露呈した。

 熊本憲兵隊が27年に作成した「沖縄事情」の「部外秘」文書「沖縄紀行雑観」は沖縄県民の「短所」を列記。「進取ノ気概ニ乏シク優柔不断」「遅鈍悠長」「協同心公徳心乏シ」「犠牲的精神ハ皆無」「責任観念ニ乏シ」などを挙げている。「短所」が「盗癖アリ」「向上発展ノ気概ナシ」などと無根拠に断定した記述を含め13点も挙げられた一方、「長所」は2点しか報告されなかった。

 日本軍内で定着した沖縄蔑視は、沖縄戦当時に久米島などで日本軍が住民をスパイ視し、虐殺した事件にもつながった。大城将保氏著「沖縄戦」によると、44年の10・10空襲後にも「沖縄のスパイが手引きした」とのうわさが本土で流れた。

 県外の県出身者らによると、1980年代まで東京や大阪など各地で「沖縄人お断り」と張り紙をした飲食店があった。「同郷者同士が集まって騒ぐ」「標準語が下手」などの偏見が理由とされていた。

 近年では2011年にケビン・メア元米国務省日本部長が「沖縄はごまかしとゆすりの名人」と発言。同年、田中聡元沖縄防衛局長は米軍普天間飛行場の移設問題に関連して「(犯す前に)これから犯しますよと言いますか」と発言した。

 演劇集団「創造」の「人類館」を大阪で再演することにも尽力した関西沖縄文庫の金城馨さんは「発言した個人ではなく、日本社会が生み出した意識の問題だ。日本人がずっと持ってきた、沖縄へのまなざしが具体化された発言だ」と指摘。「沖縄側が日本の間違いを正すことはできず、差別をやめるのは差別した側にしかできない」と日本全国の問題であることを強調した。(宮城隆尋)