終戦後、沖縄出身父と生き別れ 台湾の李苾儀さん 県人大会初参加へ


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父・松田浩さんの写真を持つ李苾儀さん(右)と息子の陳寛華さん=17日、台湾台北市

 「異郷は故郷。故郷は異郷だ」。終戦を迎える1945年1月に台湾南部、雲林(うんりん)県で生まれた李苾儀(り・びい)さん(71)は自身の境遇を比喩した。戦渦に巻き込まれ、母を亡くし県出身の父、故人松田浩さんと生き別れとなった李さんは戦後、台湾人の養父母に育てられた。彼女にとって故郷である沖縄は異郷となった。2004年に初めて沖縄の家族と再会し、ウチナーンチュアイデンティティーを少しずつ取り戻した李さんは第6回世界ウチナーンチュ大会に初めて「ウチナーンチュ」として参加する予定だ。

 李さんの父、松田さんは1938年台湾に渡り、当時の台湾総督府立台中師範学校に入学。40年に卒業した後、雲林県苾桐(しどう)の樹子脚公学校で働き始め、45年1月に李さんが生まれた。

 当時、台湾では米軍の空襲が激しく、同3月に爆弾が李さんと母がいた樹子脚公学校宿舎に落ちた。近所の台湾人によると李さんは寝ていた畳とともに宿舎外の畑に飛ばされたという。空爆で李さんは母を亡くした。李さんによると、父は乳飲み子の李さんに母乳を与えるため、やむを得ず近所の台湾人に預けたという。

 46年5月に父は李さんを台湾に残し、名古屋へ引き揚げた。なぜ彼女を台湾に残したのか。李さんは「赤ん坊の自分は長時間の船旅がきっと無理だと父は判断したのだろう」と推測した。しかし、その後一度も父と会うことがなかった。

 真相が明らかになったのは2000年ごろだった。当時、裁判に関わることがあり、その提出資料を調べている際、自らの戸籍に「父ト共ニ寄留」「世帯主・松田浩」「本籍・沖縄県中頭郡」など、これまで知らなかった記述があった。

 真実を調べようと、04年に息子の陳寛華(ちんかんか)さん(42)と共に沖縄を初めて訪れた。2人は事前に用意した日本語の資料を持って旧与那城町役場(現うるま市)を訪れた。そこで出会った男性職員は自身の父親が「松田浩」という名前だと明かし、李さんが持っていた父親の住所についても「自分の現住所だ」と話した。男性は李さんの弟だった。

 「まさかそこで自分の弟と会えると思わなかった。互いにとても驚いた」。李さんは振り返り、陳さんも「本当にびっくりした」と驚きを隠せなかった。

 沖縄の家族と対面して、12年がたった。「早く沖縄に行けばよかった。とても悔しかった。初めて父の写真を見たとき、切ない気持ちがいっぱいで泣いてしまった」と振り返った。

 李さんは「今回『ウチナーンチュ』として沖縄に帰ることを非常にうれしく思っている。沖縄の血が流れている私にとって本当のルーツは沖縄にある」と力を込めた。(呉俐君)