<未来に伝える沖縄戦>住民「泣く子捨てろ」 仲嶺盛治さん(82)〈下〉


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自身の沖縄戦体験を語る仲嶺盛治さん=今帰仁村

 《1945年、今帰仁村でも空襲が激しくなり、仲嶺盛治さん(82)は母親やきょうだいと一緒に乙羽岳へ避難しました。米軍の艦砲射撃におびえながら、複数の住民と一緒に山中を逃げ回っていました》

 私は母親やきょうだい5人で乙羽岳の山中を逃げ回りました。私は長男だったので、弟をおんぶしていました。アメリカ兵に見つかったら殺されるかもしれないし、艦砲射撃もありました。同じ集落の人たちも一緒に、自然の岩や穴の中に隠れました。一番下の妹は当時、生まれて3カ月ぐらいでしたので、泣き叫ぶことがありました。静かにしてと言ったところで聞いてくれません。そんなとき同じ壕の人から、「子どもが泣いたら自分たちが発見されて全員が殺される。まだ3カ月の子どもなんだから捨ててしまいなさい。そうすれば全員が助かる。捨てないのなら壕から出て行きなさい」と言われました。そのことは今でも忘れられません。いくら何でも自分の妹を捨てるわけにはいきません。母親と一緒に私たちは壕から出て行きました。

 《集落の人たちと離れた仲嶺さん家族は山をさまよいました。米軍は沖縄本島に45年4月1日に上陸しました》

 私たちは母親が行き場所を決めながら避難生活を続けました。私はまだ12歳でしたので、精神的に本当につらかったです。山の中での避難生活は2~3カ月ぐらい続きました。しばらくすると周囲が静かになって、「戦争が終わったかもしれない」と思うようになりました。食べ物もなかったので、私たちは山から下りようと決めました。乙羽岳から集落に向かって行く途中、今帰仁村謝名に「トーヌカ」と呼ばれる自然のトンネルがありました。そこで隠れていたとき、私は初めて米兵を見掛けました。銃を持っていて、目が青くて、顔の形も違う。いつ殺されるのかと思い、がたがた震えていました。

※続きは11月13日付紙面をご覧ください。