普天間基地内、旧神山集落が消失の危機 調整池計画


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 【宜野湾】宜野湾市の米軍普天間飛行場内に戦前あった神山集落で住宅が集中していた地域が、消失の危機に直面している。旧集落の中でも米軍施設が未整備で住居跡がかろうじて残っているとみられる地域に約75メートル×約130メートル、深さ約5メートルの調整池を造成する計画がある。かつて集落北側を国指定天然記念物の宜野湾(じのーん)並松(なんまち)が続き、碁盤の目のように整然と家が立ち並ぶ様子から「ウチカイ美(ちゅ)らさ神山」と呼ばれた集落。字神山郷友会員からは「返還予定なのに現状を変えるのか」「貴重な宅地跡をつぶすのは反対だ」などと反発の声が上がっているが、沖縄防衛局は決定事項として事業を進めている。

 防衛省予算で普天間飛行場の老朽化に伴う補修事業として「雨水排水施設」を整備する方針は、これまでにも示されていたが、沖縄防衛局担当者が10月21日、郷友会に対し、同地域が選定されたことや施設規模を明らかにした。防衛局は「米軍の駐機場や滑走路の冠水被害を防ぐため」と説明している。

 県教育委員会が来年初めにも事前の文化財調査を始める見込みで、防衛局は2017年度中の完成を目指すが、文化財調査直前に計画内容を知らされた郷友会員は戸惑いを隠せない。

 郷友会が2012年に発行した「神山誌」によると、字神山は1944年当時は373人が農業を中心に暮らしていた。45年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸した。その4、5日後、多くの住民は収容所に送られた。集落の大部分が米軍によって接収されて飛行場となった。神山の人々は収容所から解放された後も故郷に戻れなかった。

 郷友会は山城興保さん(83)ら会員の証言を基に以前、当時の住居の配置図を作成した。現在の飛行場に照らし合わせると、住居群があった場所の半分は現在米軍施設が整備されている。残る半分は緑地で、住居跡が残っている可能性が高い。また当時、住民たちが集った村屋(むらや)跡も造成予定地に入るとみられる。

 山城さんによると、基地に金網が張られるまでは住民が行き来し、基地内に残された井戸を利用した。山城さんは「井戸なども残っているのではないか。貴重な宅地跡をつぶして掘るのは反対だ」と語った。

 郷友会理事の宮城茂雄さん(68)は「返還された後、古里に帰りたいという思いがある。『決定事項だ』『提供施設だ』と言われると、日米地位協定の壁をひしひしと感じる」と憤った。

 同じく理事の宮城三男さん(65)は「返還が決まっているなかで現状には手を付けないでほしい。集落の価値を認めずに新しい施設を造るなんてもってのほかだ」と語った。郷友会幹部は近く、沖縄防衛局や市にも要請・抗議することを検討している。(明真南斗)