社会

川崎米軍機墜落からきょう55年 宮森同様 忘れないで

「事故のことを忘れないで」と語る塩川源幸さん=6日、中城村津覇

 【うるま】1961年にうるま市(旧具志川村)川崎地区に、米軍ジェット機が墜落した事故から7日で55年。死者2人に重軽傷者6人、家屋や畜舎などの建造物や農作物に大きな被害をもたらした。当時、川崎駐在所で勤務していた琉球警察巡査の塩川源幸さん(80)=中城村=は、自宅上空を飛ぶオスプレイを見上げ、事故当時と変わらぬ今の状況を憂う。「一生涯忘れることはない」と、当時の悲惨な状況を振り返った。

 「バス事故が発生せず、駐在所の椅子に座っていたら殉職していた」。ジェット機墜落の直前に発生した、バスと米軍関係者の事故対応で塩川さんは、川崎小学校向かいの米海兵隊基地キャンプ・マクトリアス第2ゲート前で交通整理していた。

 共に作業していた米軍の憲兵隊が突然、西の方を指さし騒ぎ始めた。振り返ると、離陸したジェット機から操縦士が脱出したのが見えた。無人のジェット機は、栄野比上空を通過し過ぎ去っていったかと思うと、突然右旋回し機首を下げ川崎に突っ込んできた。

 塩川さんはぼうぜんと立ち尽くした。次の瞬間、ごう音と黒煙が周囲を包む。ジェット機は燃料をまき散らし、周囲は真っ赤な炎と化した。「熱くて熱くて、焼け死ぬと思った。目も開けられなかった」

 川崎小の児童らに避難を呼び掛けた後「とにかく本署へ報告だ」と駐在所へ走った。

 墜落現場から約200~300メートル離れた駐在所内は、飛んで来た戦闘機の銃座になぎ倒され、ぐちゃぐちゃだった。銃座は玄関を突き破り、入り口のブロック塀に突き刺さっていた。机は原形をとどめず、本やガラスが辺りに散らばっていた。

 今も上空を飛行する米軍ヘリを見ると当時の状況がよみがえり、「これが墜落したら終わりだ」と恐怖に駆られる。「宮森小のジェット機墜落事故はマスコミでよく取り上げられるが、川崎のジェット機墜落事故も忘れないでほしい」。55年たつ今も、塩川さんの瞳には当時の記憶が鮮明に写し出されていた。