「両の掌を一杯に広げ岩壁に押し当ててみた。意外とあたたかい。岩肌が手の内に吸い付く。(略)硬質でなめらかな感触。所々できらめいているのは岩盤に混入した鉱物のようだ」
崎山多美の小説について書こうとすると心のどこかに不安や抵抗を感じるのはなぜだろう。小説『うんじゅが、ナサキ』では、書く行為に内包される他者への暴力(穿鑿(せんさく)、代弁、ステレオタイプ化など)に抗(あらが)い、書く行為そのものを揺るがし問い続ける、そんな位相の探求がなされていると感じるからなおさらか。その象徴が「わたし」のもとに届けられた空白だらけの記録ファイル。その文字に促されるまま、ガジマル樹の下、海岸絶壁手前の広場、地下壕などを巡り、不思議なモノたちと出逢うことになる。彼らとの口論と身体的な同期を繰り返し、その体験のなかで、何度も書く行為を手放しては、ファイルの空白に、書く「わたし」に、螺旋(らせん)状に戻ってくる。
ファイルを開く、と想像してみる。「わたし」の書いた文字とそうでない文字が、違いをそのままに隣り合う。異なる字体や筆圧による紙の凹凸をそっとなでる。と、なおも残る空白。それは崎山作品に通底する話の欠落や断片性を思わせる。それは体験や記憶の物語/言語化への抵抗だろうか(それとも…いや、穿鑿(せんさく)はよそう)。ただ耳を澄ます。書く書かれる、読む読まれるという関係性が生々流転するトキそのものに吹き上がる「声なき声」。崎山は、朗読劇『ホタラ綺譚(パナス)余滴』(名古屋9月)のトークで、作品に混入されるシマコトバについて、「日本語に対する抵抗」だと語っていた。-他者/作者の幾多の抵抗は、読者にとっては他者(抑圧された土地の記憶や死者など)への通路ともなるだろう。それらは、岩盤に混入した鉱物のきらめきではないだろうか。地下壕の、この岩壁の質感が、ファイルや作品そのものと重なる。
そして届いたこの本の彼方此方に開かれているはずの不可視の「空白」に幻視されるのは、いつかの崎山作品か。それとも、読者による、書く行為の新しい位相、だろうか。
(篠田竜太・朗読劇『ホタラ綺譚(パナス)余滴』共同企画者)
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さきやま・たみ 1954年、西表島生まれ。琉球大国文科卒。88年に「水上往還」で第19回九州芸術祭文学賞。同作と「シマ籠る」(89年)は芥川賞候補になった。
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