<未来に伝える沖縄戦>手作業で防空壕づくり 大城ミヨさん〈上〉


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 玉城村(現南城市玉城)の奥武島で生まれ育った大城ミヨさん(83)は、沖縄戦の足音が近づく1944年、玉城国民学校の5年生でした。軍国教育を受け、壕を掘る作業や竹やりの訓練をさせられます。9月には姉、弟と共に熊本県へ疎開しました。南城市立玉城中学校3年の平良信之介さん(15)と崎間恒次郎さん(15)の2人が、大城さんの話を聞きました。

熊本県に疎開した経緯について話す大城ミヨさん(左)=7日、南城市の奥武島公民館

 初めて「戦争が来る」と思ったのは、日本の兵隊が奥武島に何十人も配置されたときです。私たちは(本島と奥武島を結ぶ)橋の入り口で兵隊を出迎えましたが、こんなにたくさん来るとは思わずびっくりしました。兵隊はムラヤー(公民館)や大きな家に分かれて暮らしました。あの頃の兵隊は神々しくて恐ろしい存在でしたから、「兵隊が来たからいよいよ戦争が来るのかな」と、恐怖におびえていました。

 何のために使うのか分かりませんでしたが、学校は弁当箱、コップ、皿など、アルミでできたものを子どもたちに全て持って来させました。普通の授業はせず、わら人形をたくさん作り、竹やりで「敵が来たら突きなさい」と教えられました。

 兵隊が来た翌日から、私たちはウフドー(字糸数から字前川に通じる道)の土手で、防空壕を掘りに行きました。つるはしのようなもので掘って、かごで手渡しで土を出しました。(現在の県立玉城青少年の家近くで)陣地づくりも行われていて、奥武島からカマジーグヮー(麻袋)に砂を入れて頭に載せたり、石を砕いて一斗缶に入れたりして運びました。

 〈1944年7月ごろから、学童らの疎開命令が出されます〉

 9月には村役場から「一般疎開があるから行きなさい」と最後の指令がありました。奥武島の子どもは親と離れるのをいやがり、学童疎開にはほとんど行きませんでしたが、母たちは「戦んちゅーん、うかーさんなー。なーむるわっくぃーせーましどー」(戦争が来る、怖いね。もう皆別れた方がいいよ)と言い、私たちは疎開することになりました。

※続きは3月25日付紙面をご覧ください。