<未来に伝える沖縄戦>遭難1ヵ月、餓死覚悟 石垣正子さん〈下〉


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 〈祖母や多くの住民と水を求めて尖閣諸島の魚釣島に上陸した石垣正子さん。海上での漂流から一度は助かりましたが、上陸後はさらなる苦難が待ち受けていました〉

終戦間際の出来事を振り返り、戦争の理不尽さを訴える石垣正子さん=石垣市大川の自宅

 島には確かに湧き水がありました。しかし川とはいえません。岩肌を水がちょろちょろと流れるくらいで、みんなで行列を作りました。砂浜はなく貝なども採れません。

 食糧は疎開者たちが持っていた米を集めてニガナやサフナ(長命草)など野草を入れてみんなに配られました。でも草や汁が多くて、米はおわんの底にちょろっとあるだけ。島の中では野草以外にクバの芯を食べることができました。でも木を倒して食べるには力がないとできなくて、私と祖母には無理でした。一度だけ誰かが食べさせてくれて甘くておいしかったです。

 〈数人が一度千早丸で脱出を試みますが、途中、機関部が故障します。船はそのまま沖に流して、船員たちはボートで帰ってきました〉

 何とか飢えをしのごうとしたが、食べる物がどんどん少なくなっていきました。みんなすぐに島を離れるつもりだったので、島を出られなくなるとは思いませんでした。連絡の方法はなくなり、飢え死にするしかない状況になりました。

 島ではほとんど動かず四六時中横になっていました。ほとんど食事もしていないから、まるで半病人。とてもひもじくて、明けても暮れてもご飯のことばかり考えていました。

 餓死者も出ていたようです。ただきちんと埋葬できなかったのでしょう。風が吹いてくると、その臭いが漂ってきました。「臭い」と言ったら祖母に「罰が当たる」と怒られたのを覚えています。

※続きは4月23日付紙面をご覧ください。