日本復帰あす45年 通貨切り替え、県外から参入… 沖縄県内企業、激変に対処


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 沖縄が日本に復帰した1972年前後、ドルから円への通貨切り替えや県外企業の参入など、県内各社を取り巻く環境も大きく変化した。激動の時代を乗り越えてきた各社は、社史の中で復帰前後の様子を振り返っている。

 復帰前、県内の小麦粉需要の7割以上を占めていた沖縄製粉。本社事務所前に「復帰まであと何日」と記した表示板を掲げて、復帰後に向けた体制強化を進めた。復帰によって販売の柱の一つだった米軍向け納入は終了。一方で、復帰特別措置法により原料価格が低く抑えられていたため、規模を縮小することなく成長を続けた。日本の法制度に移行したことで、そば粉を使用していない「沖縄そば」の名称が使えなくなる可能性もあった。その際は沖縄生麺協同組合と協力して「沖縄そば」の名称を守った。

 りゅうせきは石油販売の自由競争に挑むため、直営給油所の増設など対応に追われていた。慌ただしさを増していた72年、株買い占めによる企業乗っ取りが進められているとの情報が持ち込まれた。社員らが調査に乗り出したが、株買い占めの実態把握や相手方の特定は難航。翌春ごろまで株の買い占め合戦が続けられた。社の対策チームが力を尽くし、最悪のケースを迎えることなく事件は収束に向かった。

 大同火災の前身となる共和火災と琉球火災は、復帰後の混乱を最小限に食い止めるため、県外損保会社の沖縄進出を5年間見合わせることなどを求める陳情書を日本政府などに提出した。県外の損保会社も理解を示し、復帰後しばらくは沖縄での営業を手控えることなどを申し合わせた。しかし、農協が共済事業として保険業務を取り扱えるようになった。県内の損害保険市場は、農協共済の参入による競合に見舞われた。

(参考文献・沖縄製粉60年史、りゅうせき55年史、大同火災三十五年のあゆみ)