<未来に伝える沖縄戦>友人も砲弾の犠牲に 摩文仁朝彦さん〈下〉


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戦争で亡くなった同級生を思い、苦しそうな表情を浮かべる摩文仁朝彦さん=4月1日、那覇市首里汀良町

 〈摩文仁さんは4月5日頃から一中鉄血勤皇隊として、首里の玉陵坂の途中にあった壕に潜んでいました。5月14日、米軍がついに那覇市安里に侵入してきます〉

 首里にとどまれなくなり、僕たちは南部に撤退を始めました。僕は野戦重砲兵第一連隊に配属となり、夜中に首里を出て死体でいっぱいの一日橋を通り、東風平村志多伯の丘陵に構築された医務室壕に移動しました。志多伯では、僕の首に腫瘍ができて、軍医に治療を頼むと、麻酔もないまま腫瘍を切られました。壕の中でじっとして、手足を伸ばしてゆっくり野原で眠りたいなと考えたのを覚えています。本当にもぐらのような生活でした。

 米軍がさらに南下してきたので、6月上旬に真壁の壕に移動しました。兵隊でぎっしりで、一般の人は若い女の子1人だけ見ましたが、他は兵士でした。医者がいたので負傷兵がたくさん来ました。入り口に下士官がいて、けがをした兵隊を「貴様ら、帝国陸軍の兵士がこんな傷でへこたれるか」と叱っていました。兵士は「はい」と答えますが声がどんどん小さくなっていくと、下士官は捨ててくるよう目で合図するんです。爆弾が落ちた後の穴に、まだ息がある人を落とす兵士も見ました。

 今の病院では症状の重い人を先に治療しますが、当時は逆で、内臓などがやられた重症の人は真っ先に見放されました。壕の中に入れるのは、比較的軽いけがと見なされた手足のけがをした人でした。それでも、今考えれば重傷です。重傷を負った兵士の足を軍医がどんどん切断しました。止血し、皮と筋肉を切り、のこぎりで骨を切りました。切った足を僕たちがバケツに担いで外に捨てに行くと、血や脂が首に付いて気持ち悪かったです。

※続きは5月14日付紙面をご覧ください。