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<メディア時評・言論弾圧とは何か>公権力による表現規制 試される市民の判断力


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 国連人権理事会のプライバシーの権利に関する特別報告者ジョセフ・ケナタッチ氏から5月18日、安倍首相宛ての公開書簡が公表され、共謀罪法案に対して懸念が示された。また同月30日には、言論および表現の自由の保護に関する特別報告者デービッド・ケイ氏がまとめた国連人権理事会宛ての対日調査報告書案を、国連人権高等弁務官事務所が公表した。

異論認めぬ政府

 同報告者は今月初めに来日し、共謀罪法案に関して一般論と断りつつも、犯罪行為ではなくその前段階を取り締まる行為は、プライバシーの侵害が起きやすいこと、それが表現の自由にとって大きな脅威になることを警告した。さらに言えば、現時点の最大の懸念は、政府が憲法21条の改正を企図していることと踏み込んだ。そして6月5日には国際ペンのジェニファー・クレメント会長が、共謀罪が表現の自由とプライバシーの権利に対する脅威となると訴えた。

 このように、国際社会が日本の状況を心配し、さまざまなメッセージを発しているのに対して、日本政府の反応は始めから対話を拒否するものであった。たとえば表現の自由報告書案に対してはその反論書の中で、「指摘されている事実の多くは、伝聞や推測に基づくもの」とし、プライバシー報告者書簡に対しては官房長官会見で、「個人の資格」のものに過ぎず「内容は明らかに不適切で外務省が強く抗議した」としている。

 ここでも、自分の考えに合う都合の良いことだけをつまみ食いし(たとえば同じ特別報告でも、拉致問題を取り扱う国連北朝鮮人権状況特別報告に関しては賛同)、一方で異論は一切認めないという姿勢が見て取れる。あらためて、政府がこうした世界の声を真摯に受け止め、理性をもって誠実に対応することを強く求めたい。何よりも結論ありきで、議論を認めない姿勢は民主主義社会の基本ルールを根本から崩壊させるものであって、それは批判の自由という、表現の自由の中核の市民的自由を否定するもので看過できない。

「二重基準」の誤用

 しかもこうした政府の姿勢が、表現の自由の基本的な考え方をゆがめつつあることを危惧する。それが一橋大学での百田尚樹講演会中止問題に関するメディアや市民の反応である。たとえば産経新聞は6月7日付コラムで、同講演会が外部圧力で中止に追い込まれたのは言論弾圧事例で、むしろこうした保守系文化人の被害を黙殺しリベラル派文化人の言論活動が妨害されると大騒ぎするのは「奇妙な二重基準」だとする。無料電子版やヤフーニュース配信を含めると、少なからぬ影響を有する日本の全国紙が、立法による表現規制の可能性は黙認する一方で、大学の学園祭での講演会中止を表現の自由の危機と認識していることに関し、あらためて言論弾圧とは何かを確認しておきたい。

 表現規制を類型化する場合に重要なのはその「主体」である。立法・司法・行政が市民の表現行為を制約する場合に、憲法で保障された表現の自由とのコンフリクトが問題となる。さらにそれが、内容に基づく事前の規制である時、「検閲」として許されないのが大原則だ。ただし現実には、その解釈を裁判所の判例で狭めることで、教科書検定や裁判所の出版事前差し止めを限定的に許してきている。

 こうした公権力以外に、次の類型として社会的勢力が考えられる。その中には、限りなく為政者と同等の政権党(政党)から、宗教団体、経済団体や大企業、労働組合や市民団体など、さまざまなレベル・形態のものが存在する。為政者の威を借りたり、暴力などの威迫を伴ったりする行為は、時に言論弾圧として社会的に糾弾の対象とされるし、場合によっては裁判所に違法行為として認定される場合もなくはない。しかし法的には一般に、広く自由な言動が認められており、むしろこの行き過ぎを戒める役割は市民社会そのものだ。まさにいま、一部グループによるヘイトスピーチへの対応などで、その市民力が試されているとも言えよう。

議論で育てる

 そして、最後の類型が自主規制である。これが行き過ぎると言葉狩りと呼ばれるような過剰な自主規制となるし、いま話題の忖度(そんたく)や萎縮も、一般には悪しき側面といえるだろう。そしてあえて言うならば、その忖度に公権力の影があるからこそ、第1のカテゴリーに属する話として問題となっているのである。しかしそれと表裏ではあるものの、表現の自由は法律上、最大限の保障を与えられているがために、その自由にはおのずと「内在的制約」が求められており、一定の自律的な抑制力が働かなくては、逆に真の自由は守れない。

 それからすると、公権力・社会的勢力・自主規制の表現規制を行う主体別に分けた場合、「百田尚樹講演会中止問題」は3つ目の自主規制の問題として議論の対象にすべきだ。それが過度なものであったのか、適切なものであったのかということで、これが仮に過度のものであったとしても、言論弾圧とは呼ばない。大学という場であることを考えると、より自由にさまざまな意見が戦わされることがよいともいえるし、新入生歓迎という目的での大学公認行事であったならば、しかるべき抑制力が働くことが好ましいとも言えるだろう。その判断は、当事者が迷い、そしてまたその判断の是非を社会全体で議論することで、より表現の自由は強まっていくのだと信じたい。
(山田健太 専修大学教授・言論法)