大田昌秀氏死去 元知事、全国に基地問う


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少女乱暴事件に抗議する10・21県民総決起大会であいさつする大田昌秀知事=1995年10月21日、宜野湾市海浜公園

 鉄血勤皇隊として苛烈な沖縄戦を体験し、県知事や参院議員などを歴任して基地問題の解決や平和行政の推進、県経済の発展に取り組んだ大田昌秀(おおた・まさひで)氏が12日午前11時50分、呼吸不全・肺炎のため那覇市内の病院で死去した。92歳。久米島町出身。告別式は15日午後2時から3時、浦添市伊奈武瀬1の7の1、いなんせ会館で行われる。喪主は妻・啓子(けいこ)さん。

 大田氏は今年に入り体調を崩し、春から入退院を繰り返していた。仮通夜が営まれた、いなんせ会館には翁長雄志知事や知人らが訪れ、故人を悼んだ。

 大田氏は1925年生まれ。45年、県師範学校在学中に鉄血勤皇隊に動員され、九死に一生を得た。早稲田大学を卒業後、米国に留学。68年に琉球大教授に就任した。90年に革新統一候補として県知事選に出馬し、現職だった故・西銘順治氏を破り、12年ぶりに県政を革新に奪還した。日本復帰後の第4代県知事となり、2期8年を務めた。

 県政の最大課題であった基地問題を巡っては、95年に起きた米兵による少女乱暴事件を契機に米軍普天間飛行場の返還などを求め、日米両政府から普天間全面返還の合意を引き出した。地主が契約を拒んだ軍用地について、地主に代わって土地調書に署名押印する代理署名を拒否し、国に提訴された。歴代知事で最多の7回訪米し、沖縄の過重な基地負担を訴え、基地の整理縮小などを直接求めた。

 95年に沖縄戦で犠牲になった全ての人の名を刻銘する平和の礎や県公文書館を建設した。96年には、基地のない沖縄の将来像を描き、沖縄の自立的発展を目指した「国際都市形成構想」を策定した。さらに、段階的に米軍基地を全面返還させるとした「基地返還アクションプログラム」をまとめ、国に提案した。

 98年の知事選で稲嶺恵一氏に敗れたが、2001年の参院選に社民党から出馬し、当選。1期務め、07年に政界を引退した。その後は沖縄国際平和研究所を主宰し、講演などで平和を訴えた。

 研究者としての顔も知られ、住民視点から沖縄戦とその後の米軍統治下時代の実相を広く世に伝えた。1987年には沖縄研究の顕著な業績が評価され東恩納寛惇賞を受けたほか、2009年に琉球新報賞を受賞。17年にノーベル平和賞候補にノミネートされた。