沖縄戦から73年、置き去りにした少年どこに… 比嘉盛光さん「今も後悔。存命なら謝りたい」


この記事を書いた人 Avatar photo 島袋 貞治
沖縄戦当時、南城市知念字具志堅の収容所近くで置き去りにした少年のことを振り返る比嘉盛光さん=18日、沖縄県浦添市

 【浦添】1945年の沖縄戦当時、現在の浦添市西原から本島南部に避難し、米軍に保護されて南城市知念の収容所で過ごしていた比嘉盛光さん(82)=浦添市=が、祖母のカマさんが連れてきた見ず知らずの少年を置き去りにしたことを、このほど発刊された西原字誌に証言した。当時10歳だった比嘉さんは本紙の取材に対し「当時は食べるものもなく不安で、自分のことで精いっぱいで少年のことを置いてきてしまったが、心にずっと引っ掛かっていた。生きていたら心から謝りたい」と語った。

 比嘉さんは当時、浦添国民学校西原分校の小学4年生だった。45年春ごろから米軍の爆撃がひどくなり、4月に家族や親類と共に南部に避難することになった。米軍の攻撃が特に激しかった糸満市の大度海岸から摩文仁に避難しようとした際に祖母とはぐれてしまった。

 比嘉さんらは摩文仁に向かう途中で米軍に捕まり、南城市知念字具志堅にあった収容所に送られた。しばらくして、祖母が10歳くらいの見知らぬ少年の手を引いて収容所に現れた。

 祖母との再会に比嘉さんらは喜んだが、祖母は足をけがしていた上、戦場の恐怖や避難による疲労、栄養失調などが重なったためか、意味不明な言動を繰り返したという。

比嘉カマさん

 比嘉さんが衝撃を受けたのが、祖母に忘れられたことだった。「『おばあ、盛光だよ』と話し掛けても『違う。盛光はこの子だよ』と言って少年のことを自分の孫だと思い込んでいた。祖母に追いやられた気がして、とても悲しかった」と振り返る。

 比嘉さんは知人と一緒に、祖母が連れてきた少年を「遊ぼう」と収容所から1キロほど離れた場所まで連れ出し、かくれんぼをした。少年が数を数えている間、こっそり具志堅に戻った。だが、少年が1人で戻ってきたため、さらに2回少年を連れ出した。

 3回目は、3~4キロ離れた場所まで連れ出した。少年は帰ってこなかった。

 祖母は数日後、マラリアにかかって亡くなった。比嘉さんもマラリアにかかったが、親族がネズミやカエルなどを捕まえて食べさせ、一命を取り留めた。

 比嘉さんは「食べ物も限られていて、自分も生き延びられるか分からない状態だった。祖母に忘れられたショックもあった」と当時の心境を語る。「今思うと非人道的なことをした。悔やんでも悔やみきれない。心を込めて謝りたい」と述べ、少年が生き延びて再会できることを願った。

 比嘉さんは「戦争の恐怖は人の心を失わせる。戦争は二度とあってはならない」と話した。
(松堂秀樹)