妹を孤児に…今も心に傷 6歳の少年は戦場を必死で逃げた


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沖縄戦の体験を語る喜舎場宗正さん=5月19日、浦添市

 【浦添】心に刺さった傷は、治ることはない―。6歳の時に沖縄戦を体験した喜舎場宗正さん(79)=浦添市=が、市内で開かれた平和学習フィールドワーク「浦添アイテムポケットとマチナト飛行場」(県平和祈念資料館友の会主催)で参加者に戦争体験を語った。当時、祖父と姉、妹と一緒に逃げていた喜舎場さん。しかし祖父は銃弾を受け亡くなり、ガマでは妹を連れ出せなかった。喜舎場さんは「自分を守るので必死だった」と、目に涙を浮かべ、当時の状況を語った。

 当時6歳だった喜舎場さん。父親が防衛隊に召集され、祖父と12歳の姉ハル子さん、2歳半の妹キョウコさんと一緒に浦添で避難生活を送った。空襲が激しくなり、ウヮーグヮーガマへ移る途中、銃声が響き、妹を背負っていた祖父が銃弾を受け亡くなった。祖父に背負われていた妹は姉に抱きかかえられ、必死に逃げた。

 ウヮーグヮーガマに逃げ込んだ喜舎場さんたち。数日が過ぎたころ、米兵が現れ「出てこい」と銃を向けられた。ガマの中には手りゅう弾が散乱していて、誰かが米兵に投げるそぶりをして見せたためか、米兵は立ち去ったという。しかし数日後、ガマに黄リン弾が投げ込まれた。喜舎場さんは逃げるのに必死で、妹を連れ出せなかった。

 その後、姉と一緒に米軍に保護され、孤児院に入れられた。そこで米兵に連れられた妹と再会を果たしたが、その姿は痩せているのに腹は膨れ、うつろな目をしていた。「見る影もなかった。かける言葉もなかった」。妹はそのまま病院に連れて行かれたといい、再び行方が分からなくなった。

 妹の死を確認したのは8年前の2010年。沖縄市で開かれた孤児の慰霊祭で、死亡者名簿に妹の名が載っていた。

 「妹のことも今はどうにか話ができるが、涙が先に立つ」と、言葉に詰まりながらも沖縄戦の体験を語った喜舎場さん。「心に刺さった傷は治ることはない。だが、話す義務があると思っている」と、悲劇を繰り返さないため、体験を語り継ぐ決意を込めた。