傷痕今も 体験切々と 米軍撃沈「嘉義丸」乗船 真栄田さんと仲本さん 対面実現、当時を語る


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米軍に撃沈された嘉義丸について語る真栄田栄子さん(右)と仲本康子さん=26日、今帰仁村越地

 【今帰仁】1943年5月26日の奄美大島沖で、米潜水艦によって撃沈された航路船「嘉義丸」(2344トン)に当時乗っていた真栄田栄子さん(93)=今帰仁村=と仲本康子さん(77)=本部町=が26日、沖縄県今帰仁村内で初めて対面した。2人はそれぞれの体験を語らい、「戦争で生き残って良かった。互いに長生きしようね」と手を重ねた。

 本紙10月27日付の仲本さんの体験を伝える記事を読んだ真栄田さんの親類が本紙に連絡を取り、今回の対面が実現した。真栄田さんは嘉義丸の体験者と戦後初めて会った。当時、真栄田さんは17歳、仲本さんは2歳半だった。

 42年に働くため、親類を頼って大阪へ渡った真栄田さんは、翌年の43年5月19日、30代後半のいとこの女性、その子ども3人と沖縄に帰るため、神戸から嘉義丸に乗った。嘉義丸は同26日、米軍の魚雷2発によって沈んだ。

 当時船室にいた真栄田さんは「ボン、ボンと2回の爆発音を聞いた。『早く海に飛び込め』と船員が怒鳴っていた」と振り返った。親類の子ども3人は女の子2人と男の子1人。真栄田さんは救命胴衣を着け、いとこの子どものうち最も幼い女の子を抱えた。いとこは他の2人の子を見つけられず、戻ってきた。そのいとこに女の子を返した直後、甲板から海に逃れた。

 救助船に引き上げられると、負傷した足裏から流れた自らの血が、船上を真っ赤に染めていた。その傷痕は今もくっきりと残っている。

 戦時遭難船舶遺族会によると、嘉義丸は米軍に攻撃された戦時遭難船舶32隻のうち最初の船で、321人(県内283人、県外38人)が命を落とした。奄美大島で手当を受けた真栄田さんは遺体安置所となった場所について「いっぱい並んだ遺体を全て確認したが、(女性と子どもを)見つけられなかった」と目を閉じた。

 同じく大阪で暮らしていた仲本さんも父と母、弟と乗船し、母を失った。

 真栄田さんのめいで、対面を見守った新垣由美子さん(68)=名護市=は「叔母たちが語れるうちに体験を記録したかった。もしも語らなければ、なかったことになるかもしれない。私にも孫がいる。次の世代に伝えたい」と語った。