2度の強制堕胎、3度目に「もう奪わせぬ」 辛い過去を回顧「子が生きる糧に」 愛楽園入所者の平得さん 実名明かし証言


この記事を書いた人 Avatar photo 与那嶺 明彦
書き留めた短歌と俳句をまとめた平得さんのノート

 【名護】1971年、沖縄県名護市済井出のハンセン病療養所施設・沖縄愛楽園。職員と入所者の居住地を隔てる門の前で、当時35歳だった入所者の平得壯市(そういち)さん(82)は、職員を呼び出す拍子木を割れんばかりに打ち鳴らした。「婦長を呼べ、妻を帰せ」。妻は強制堕胎のために婦長に連れて行かれた。これまで2度妊娠したが、いずれも堕胎させられた。拍子木の音は、国に奪われた人生と新たな命を取り戻す始まりを告げていた。その後生まれた子は現在、47歳となる。「子どもは希望、生きる糧だよ」。15歳で強制隔離されて67年。報道の取材に初めて実名を明かした。

 平得さんは36年に与那国島で生まれた。13歳でハンセン病を発病し、51年に愛楽園に入所した。親族と共に与那国から3日をかけて園に着いた。応対した職員は患者と知ると、出した茶を下げた。「刑務所に入れられたような感覚だった」

 療養所とは名ばかり。患者が患者を診ていた。「農作業や炊事だけでなく、動けない人を看護した。自らの治療どころでない」

身振りを交え半生を語る平得壯市さん=28日午後、名護市済井出の沖縄愛楽園

 米軍統治下、軍の支給はあったとはいえ、物資は常に不足。病気の影響で手足の感覚がまひする中、ドラム缶で煮炊きした。やけどに気付かず、指先を失った。「風船のように膨らんでから気付いても治療はままならない。手遅れとなり切断するしかない」。多くの入所者が手足を失った。

 やり場のない怒りや悲しみ。やがて短歌・俳句の創作活動に、その思いをぶつけるようになった。

 「醜くなりし 子の現し身を知らずして 逝きにし母は幸せならんか」

 65年、28歳で同じ入所者の妻と結婚した。妻は英語が堪能で活発だった。「目が大きくてね。みーぐるーとよく呼ばれていた」と笑った。妻のおなかに宿った2つの命は国策に奪われた。「あの頃は見つかったら流産させられた。子どもが欲しくない人なんかいない」

 3度目の妊娠が分かった。石垣で暮らす兄夫婦が「うちで育てるから産みなさい」と後押しし、平得さん夫妻は産むことを決意した。ところが、平得さんが家にいない隙を突き、園は妻を連れ出して堕胎を強制しようとした。

 「流産させるために那覇から先生が来ている」。拍子木の音で現れた婦長が言い放った。平得さんが怒声を上げた。「絶対に堕胎させない。これ以上、奪われてなるものか」

 園内で出産しないことを条件に妻は解放された。その後、石垣で長女を出産した。76年には長男も園外で出産。2人の子は親類の下で育てた。

 一部の園職員からは「国に養われているのに、子どもがいるのは許されない」という言葉を浴びせられた。それでも離れた子を思い、がむしゃらに働き、生活費を送った。「どんな言葉を言われようが、子のことを考えれば耐えられた」。仕事で園外に出る機会も増えた。帰ることはないと思っていた実家にも、子に会うために帰ることができた。「子どもと一緒に暮らすことはできなかったけれど、子どもがいるだけで生きることができた」

 その変化は創作活動にも表れている。「合格の 報を告げる 娘の電話」。子どもたちの成長や、妻とのやりとりなど明るい句が増えていった。書きためた詩歌は数百に上った。妻は2010年、74歳で亡くなった。園で暮らして67年。今の暮らしに不満はない。

 愛楽園は10日、開園80年を迎えた。ハンセン病への差別、偏見はいまだ残る。「よく分からない、知らないから差別する。私たち元患者は恥じることは何もない。堂々と外に出て、会話を重ねれば、お互い理解し合えるよ」
 (佐野真慈)