名護市、再び民意示す時 政治の暴走を止める 「反対に○」に託す思い 分断と連帯、揺れ続けた日々


社会
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名護市役所の前に立つ宮城保さん。宮城さんにとって市役所には「職場」と「抗議の場」という二つの側面があった=13日

 2004年11月20日、名護市役所を約370人が手をつないで取り囲んだ。当時、市職員だった宮城保さん(69)はその輪に加わった。辺野古への新基地建設計画を巡り、当時の岸本建男市長=故人=による普天間代替施設受け入れの撤回を求める行動だった。「公約違反だ」「新たな基地建設は許されない」。参加者らは声を張り上げた。

 宮城さんは多野岳のふもと、名護市川上で生まれ育った。幼少期、近くには米軍のホークミサイル基地があり、米軍トラックがわが物顔で往来するのを目にしてきた。

 亡くなった父の幸源さんは太平洋戦争に海軍兵として従軍した。戦後、農業を営むかたわら、政治運動に身を投じた。沖縄に基地を押し付ける日米両政府に対しあらがう父親の姿を、宮城さんは見て育った。

 復帰直後の1972年7月から市職員として働き始めた。条例制定業務を担いながら、日本国憲法や地方自治法の趣旨を反すうしてきた。97年の移設の是非を問う市民投票では、市民運動の立場から、条例案作成に携わった。

 市民投票の結果は宮城さんたちの思い通り反対票が賛成票を2372票上回ったが、当時の比嘉鉄也市長は移設受け入れを表明し辞任した。「民意は踏みにじられた」。当時の悔しさは今も消えることはない。

 市民投票から21年余。基地建設を巡り、市民らが選択を迫られ、対峙(たいじ)する構図は変わらない。「(逆の立場の人と)顔を会わせづらい」と、地域の行事に参加しないなど、人間関係にも暗い影を落としている。

 2004年の市役所包囲行動では岸本市長に矛先が向かった。「移設を容認した、そう言われることに夫は葛藤していた」。そばで支え続けた妻の能子さん(70)は岸本市長の思いを代弁した。岸本市長は15年使用期限などの7条件を突き付け、国と交渉してきた。「夫は反戦地主だった。『(基地建設を)やれるものならやってみろ』といつも言っていた」と振り返る。「辺野古移設には反対だ。今回も反対に入れる」。能子さんは県民投票で岸本市長の遺志をぶつける。

 宮城さんも県民投票では反対票を投じるつもりだ。市民投票以降、全国各地に出向き、空港建設や霊園やダムの設置など賛否が分かれる現場で、経験を伝えてきた。24日、名護市民は再び民意を示す時を迎える。「県民投票は民意の共有と、政治の暴走の歯止めにつながるはずだ」。宮城さんはそう確信している。
 (塚崎昇平)