「普天間飛行場の成り立ちは?」 8800人の集落を破壊、接収


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 Q 米軍普天間飛行場の成り立ちは?

 A 1945年6月、沖縄戦で日本軍を徐々に南部に追い詰めていった米軍は本土決戦に備え、占領した宜野湾村(当時)の14字にまたがる地域で飛行場の建設を始めた。米公文書によると、米軍は43年10月の段階で既に地形図などを研究し、普天間飛行場の建設を計画していたことが分かっている。

 Q 飛行場がある場所にはもともと何があった?

 A 字宜野湾、神山、新城、中原の集落を中心とした14字には戦前、約8800人が暮らしていた。戦前に天然記念物に指定されていた松並木の街道「宜野湾並松(じのーんなんまち)」や伝統の琉球競馬を催す「宜野湾馬場」があったほか、字宜野湾には村役場や国民学校などの公共機関や市場も集中していた。

 しかし沖縄戦が本格化したことで住民が避難し、戦中も収容所に強制収容されている間に戦火や飛行場の建設で家屋敷は破壊され、松並木も伐採された。住民が収容所から戻る頃には原風景は跡形もなくなっていた。土地を強制接収して造られた普天間飛行場は、戦争中の民間地奪取を禁止している国際法のハーグ陸戦条約に違反していると指摘されている。

 Q 戦後、米海兵隊が使うようになった経緯は?

 A 当初は陸軍が管理していたが、57年に空軍、60年に海兵隊へ管理権が移った。海兵隊の移駐を巡っては、岐阜県と山梨県に駐留していた海兵隊の地上部隊「第3海兵師団」が、隊員による犯罪の発生などを機に両県で基地反対運動が高まったことを受け、56年に沖縄に移転した。

 さらに69年、山口県岩国基地を拠点にしていたヘリ部隊「第1海兵航空団第36海兵航空群」が沖縄に移転した。81年に返還された北谷町のハンビー飛行場の代替施設になるなどして基地機能の強化が進んだ。

 Q 危険性除去の必要性が指摘されるのはなぜ?

 A 故郷の土地を奪われ、行き場を失った住民は戦後、飛行場の周囲に住むことを余儀なくされた。古里のなるべく近くに、という思いもあった。普天間飛行場は宜野湾市のど真ん中にあり、2003年に視察したラムズフェルド米国防長官(当時)が「世界一危険」と表現した。

 実際、米軍機の墜落や部品落下は各地で相次いでいる。宜野湾市だけでも、1980年にOV10ブロンコが滑走路上に墜落し、乗員1人が死亡した。2004年には沖縄国際大にCH53Dヘリが墜落、炎上した。17年には緑ヶ丘保育園と普天間第二小に部品が落下した。

 Q 飛行場の現状は?

 A 約480ヘクタールの飛行場は今も宜野湾市の面積の約4分の1を占める。MV22オスプレイ24機、CH53Eヘリ12機、AH1Zヘリ12機など計58機が常駐し、外来機も頻繁に飛来している。騒音被害も激しく、市民から同市に寄せられる苦情件数は17年度までに4年連続で過去最多を更新し、本年度も既に前年度を上回っている。

 日米両政府は1996年の「SACO最終報告」で普天間飛行場の全面返還に合意したが、今も返還時期の見通しは立っていない。2014年には政府が「5年以内の運用停止」を県に約束し、今月18日にはその期限を迎えるが、政府は「辺野古移設への協力が前提」との立場を示し、実現を困難視している。