「おばあの生きた証し刻めた」 平和の礎に追加刻銘 84歳の孫「ようやく肩の荷が下りた」


この記事を書いた人 Avatar photo 米倉 外昭
平和の礎に刻まれた祖母金城ウサさんの名前を見て喜ぶ栄保さん=17日午前、糸満市摩文仁の平和祈念公園

 沖縄戦などの犠牲者名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」(沖縄県糸満市)に17日、新たに42人を加えた刻銘板が設置された。同市真栄平に住む金城栄保さん(84)の祖母ウサさんもその一人。栄保さんはこの日、ウサさんの名を指でなぞりながら「写真の一枚もなかったおばあの生きた証しを刻むことができて良かった」と胸をなで下ろした。

 74年前の6月、米軍の激しい空襲で真栄平は壊滅的な状態だった。栄保さんら一家は80代後半のウサさんを連れて防空壕に避難していた。ただ、戦況が悪化すると、避難者だけでなく日本軍も南部に押し寄せた。

 住民たちで作った壕に隠れていると、軍に無理やり追い出された。新たな壕に移ってもまた、軍に追い出された。3カ所目の避難場所となった自宅敷地の防空壕で、ウサさんは座ったまま亡くなった。

 畑作業をするウサさんによくついて行った。「ちょっとの溝でも私を抱え上げてくれた。優しかったという思い出ばかり」。それでも、集落のあちこちに遺体があふれ「明日はわが身。悲しむ余裕はなかった。人間が人間でなくなるのが戦争だ」と振り返る。

 戦後、父と妹が別々の収容所で病死した。慰霊の日前後には必ず、刻銘された2人の供養のために平和祈念公園を訪れていた。ウサさんの名も刻銘されていると思っていたが、一つ一つ探したものの見当たらなかった。位牌(いはい)を管理する親族は刻銘の申請をしていなかった。

 生年月日が分からず諦めていたが、最近になって追加刻銘できることを知り、ようやく念願がかなった。「おばあに申し訳なくて死んでも死にきれない思いだった。ようやく肩の荷が下りた」と少し笑顔になった。