母の名前は覚えていないけど、生きた証しを残したい 83歳の男性、母親の呼び名で「平和の礎」に刻銘


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「母の生きた証しを残したいと思った」と語る安谷屋正幸さん=5月30日、糸満市西崎町

 【糸満】沖縄県糸満市西崎町の安谷屋正幸さん(83)の母・安谷屋ウサ小(グワァ)さんが糸満市摩文仁の「平和の礎」に追加刻銘される。安谷屋さんが母と最後に別れたのは、安谷屋さんが8歳ごろのこと。母の名前は覚えておらず、母が周囲から呼ばれていた「ウサ小」で追加刻銘を申し込んだ。

 安谷屋さんは豊見城市田頭の出身。一人っ子で、農業をしていた両親に「とてもかわいがってもらっていた」と振り返る。

 祖父母と母と共に戦火をくぐり抜けて南部に向かう途中、高嶺村(現糸満市)の十字路付近で艦砲射撃に襲われた。土ぼこりが巻き上がり、安谷屋さんが振り返ると母が倒れていた。

 母は生きていたが、自力で動くことはできなかった。「おかあ、おかあ」と呼び掛ける安谷屋さんに対し、母は「早くおじいとおばあと行きなさい」と言ったという。祖父が艦砲射撃でできた穴に母を横たわらせ、安谷屋さんは祖父母とともにその場を去った。

 戦後、安谷屋さんは、母と別れた十字路で、母が横たわっていた場所に横になり、添い寝するように夜を明かしたこともあるという。

 安谷屋さんは「名前も覚えていないし、もう刻銘しなくてもいいと思っていたけど、平和の礎はずっと残るもの。子や孫のためにも、母が生きていた証しを残そうと思った。戦争はとても悲惨なもの。もう二度と起きてほしくない」と語った。