「弟が泣き ガマから出された」 優しい人たちも一変、命守るに必死 83歳女性が沖縄戦経験語る


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「識名平和資料館」で写真を見て説明する上原美智子さん=6月21日、那覇市立識名小学校

 沖縄県那覇市立識名小学校(平良雅司校長)は6月21日、同校で平和集会を開いた。講師に沖縄戦体験者で県平和祈念資料館友の会副会長の上原美智子さん(83)を招いた。上原さんは幼いきょうだいを連れてガマで息を潜めた体験などを語り「二度と戦争があってはいけない」と言葉に力を込めた。

 上原さんは現糸満市大度で生まれ、9歳(国民学校3年)の時に沖縄戦を体験した。父の玉城蒲吉さんは防衛隊として召集され、その後消息が分からなくなった。戦場へ向かう父を見送った光景を思い出すと今でも涙があふれるという。

 米軍が沖縄本島に上陸したのは1945年4月1日。その直前の3月23日午前7時ごろ、7機の米軍機が大度集落上空に低空飛行で現れ「ババババー」と機銃掃射をした。母と姉に「後から行く」と告げられ、上原さんは先に生後8カ月だった末の弟をおぶい、3歳の弟と6歳の妹を連れて、集落の人々が身を潜めるガマへ逃げ込んだ。

 泣きやまない末弟。「泣かすな。出て行きなさい」と背後から聞こえる声。優しかった人たちでさえ、自分の命を守るのに必死だった。4人はガマの外に出た。上原さんが末弟の口をふさいでいたため、末弟は窒息しそうになり目を白黒させていた。手を離すと血色が戻った。母と姉に再会できたのは夕方だった。髪を乱し、泥まみれになった上原さんは母を責めた。

 上原さん一家は暗い夜道を歩き、3日間かけて恩納村の山中に避難した。避難生活中に末弟が栄養失調で亡くなった。5月、米軍に見つかり石川収容所に収容された。上原さんは「命どぅ宝。あんな苦い経験をしてほしくない」と強調した。

 講話を聞いた波平美咲さん(6年)は「これからの日本をつくるのは私たちだ。小さな積み重ねが大きな平和をつくる」と決意を語った。知念真修(ましゅう)さん(6年)は「戦争の残酷さを受け止め、伝えていきたい」と話した。

 同校は6月11日から21日まで「識名平和資料館」を開設した。県平和祈念資料館の資料貸し出し事業を活用し、沖縄戦の写真や実物資料など約100点を展示した。児童会が沖縄戦についてまとめた資料や6年生が制作したパンフレットも展示した。見学した上原さんは「6年生が学んだことを下級生に伝えていることに感動した」と話した。
 (中川廣江通信員)