半世紀ぶり、手紙通じ同級生交歓 宮古・鏡原中保良さんら


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 1958年にブラジルに移民し音信不通だった宮古島市出身の砂川定金さん(70)=南マットグロッソ州カンポ・グランデ市=の居所を、同市の鏡原中学校で同級生だった保良栄長さん(70)=那覇市=や洲鎌ハルさん(71)=浦添市=らがこのほど、沖縄県人のブラジル移民が100年を迎えたことを機に突き止め、手紙のやりとりを始めている。

砂川さんは手紙で「言葉が分からず不自由な時期もあった」などと移民当時の苦労を明かし、旧友から手紙をもらい「懐かしく涙を流し、紙面を濡(ぬ)らすほど」と感極まった様子をしたためている。
 沖縄で農事試験場に勤めていた砂川さんは戦後移民が盛んだった58年、沖縄産業開発青年隊に同行し移民。カンポ・グランデに配耕後はコーヒー栽培、稲作など多くの仕事に就いた。ポルトガル語や沖縄本島の方言が分からず「苦労した」。現在は8人の子と9人の孫に恵まれている。生活に追われ、親類とも連絡が取れなかったという。
 砂川さんは20数年前に一度帰郷。同期生が歓迎会を開いた。洲鎌さんは「砂川さんが『母親に顔を忘れられ、ショックだ。親不孝をした』と、帰ることができなかった約30年間を悔いていた」と振り返る。その後、砂川さんはブラジルで転居したこともあり、再び音信不通になっていた。
 保良さんは砂川さんの住所を県交流推進課に問い合わせ、カンポ・グランデ沖縄県人会(玉城諚二会長)が今年4月、砂川さんの転居先を突き止めた。
 保良さんらの手紙に、砂川さんは「旧友たちの多くが健在で何より」と喜び、子や孫に恵まれて野菜を育て「菜園巡りが楽しみ」などと返信した。移民100周年については三線や沖縄そばなど、カンポ・グランデ市に定着した沖縄文化を挙げ「ブラジルの人々がさらに日本を理解し、共に世界の平和発展に尽くすことが最高の喜び」と書いた。洲鎌さんたちは同期生数人で返事を読み、懐かしんだ。
 同期生らは09年、トゥシビー祝いを兼ねた同期会を開く予定。砂川さんは妻の体調がすぐれず参加できそうにないが、手紙に「同期会の大成功を祈っている」と記した。保良さんは「同期会を終えたら、元気な仲間たちの様子を砂川さんに伝えたい」と話した。 (宮城隆尋)