[24 三中通信隊暗号班(1)]当初は優越感も

訓練とは名ばかりの壕掘り

 昭和20年1月、3学期が始まるとともに、三中でも他校同様に通信隊が編成された。全員3年生。有線班(15人)、無線班(17人)、暗号班(15人)の編成は、配属将校によって決められ、講堂や武道場に泊まり込み、厳しい訓練が始まった。

 暗号班は病気の2人を除き、実際に編成されたのは13人だ。宮崎県で教師をしていたという徳丸春雄中尉の下、長友上等兵が主に指導、後藤1等兵が助手として暗号班の訓練に当たった。

 「徳丸中尉はいつも鼻をピーピー鳴らし体の弱そうな人。長友上等兵はムッツリしていて、間違うと『こんなことで弾の下をくぐれると思うか』とよく怒鳴られた。後藤1等兵は、これでよく兵隊が務まるものだと感心するほどのん気な人、学生とも友達のように付き合っていた」と国吉真昭さん(56)=那覇市三原=は言う。

 国吉さんは「通信隊入りは特に抵抗なかった。みんな士官学校や予科練など軍人志望だったから当然のように受け止めた」と言う。一度、下士官に付き添われて全員で映画を見に行ったことがあったが、隊伍(ご)を組んで名護の街を行進した時、「町の人が尊敬のまなざしで眺めているようで誇らしくもあった」。

 暗号班の訓練は、独特の数字の書き方から始まり暗号解読の方法まで厳しかった。しかし、ほかの通信班に対し、一種の優越感もあった。ほかは数字だけしか知らなかったが、暗号班だけは内容を知ることができたからだ。

 「それだけに秘密保持については口やかましく言われた。部外との接触は禁止され、米軍の恐ろしさもたたき込まれた。捕虜になった場合、耳をもがれて生きたまま皮をはぐと教えられ恐ろしくなった」と前田泰弘さん(56)=那覇市識名、識名(旧姓大山)盛敏さん(56)=那覇市三原=は振り返る。

 1月下旬、三中の武道場での訓練は、八重岳の谷間にあった宇土部隊本部に移された。だが、訓練とは名ばかりで暗号業務に携わることはほとんどなく、兵舎建築のための材木運びや壕掘りが主な任務だった。

 壕掘りはつらかった。2人が午前5時から掘り始め朝食後は全員が駆り出されて夜の10時ごろまで続いた。伊豆味の製材所からの材木運びや、あるいは壕の坑木の伐採や運搬などもやらされた。

 山中は寒い。軍から支給された毛布2枚に、個人用の1枚を重ねても、なお寒かった。昼の重労働に加え、そまつな食事は食べ盛りの少年たちをまいらせた。「飯ごうのふたに入るほどしかなかった。3年分の食糧は確保していると聞いていたが、貧弱だった」(識名さん)。

 前田さんは「下士官当番が楽しみだった」と言う。床の敷き方で口うるさいのには閉口したが、何よりも下士官の残飯が食べられることがうれしかった。また、半ドンだった日曜日には、山中の酒保に行ける楽しみもあった。帰るころには日が暮れるほどの距離だったが、カルピスや汁粉の味につられて欠かすことはできなかった。

 重労働と空腹はあったが深い木々の中の生活は、まだ戦場とは程遠かった。3月10日の陸軍記念日には師範学校の東風平恵位教授が来隊、缶詰箱の上に乗り、自ら作曲して初披露の「球7071部隊の歌」を指揮していた。2週間後に沖縄戦が始まることなど予想もつかなかった。ましてや6人の学友を失うことなど…。

(「戦禍を掘る」取材班)

1984年12月20日掲載

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