[25 三中通信隊暗号班(2)]秘密厳守で会話禁止

陸軍2等兵を命じられる

 みんなが重労働と空腹を相手に闘っているころ、国吉真昭さんは、ほとんど本部の暗号室に詰めていた。「坑木を運んだ記憶もなくひもじい思いをした記憶もない。夜食の大きなおにぎりがおいしかったことなどがあるだけ」。しかし、将校たちが詰める本部詰めは緊張の毎日だった。おまけに「秘密厳守」だったから他の生徒と業務についての会話も禁じられていた。

 「宇土支隊長とすれ違う時、直立不動で敬礼をしたが、『ヤァッ』と威風堂々と答えていた。相撲取りみたいにでっぷり太っていて、本部内では軍服姿を見ることが少なかった。いつも半裸かラフな格好。だが、よく女性が部屋に出入りしているとの話も聞き、軟弱な人間だなとも思った」

 通信は数字を配列していった。数種類の乱数表があったが、最初に「どの乱数表の何ページの何行目、何番目から入れとの指示があった」。それに基づいて文章に換えていく。32軍本部とは4桁(けた)、多野岳や恩納岳とは3桁の数字を使用して結んだ。「暗号にも軍暗号、部隊暗号、情報暗号と3種類あって、解読する時にわくわくしたのが情報暗号。戦果報告に使用していたから―」。

 3月23日、沖縄戦が始まった。北部も激しい空襲だ。国吉さんは木に登って空を見た。うっそうとした木の間からカーチス1機だけしか見えなかった。「25日ごろには訓練を終え、家に帰れることになっていた。これでもう帰れなくなったと思った」

 2、3日後、徳丸春雄中尉は全員を家に帰した。部隊編入のため親の承諾書が必要になったからだ。半強制的な命令だった。

   ◇   ◇

 ほとんどが3月末ごろまでに戻って来たが、識名盛敏さんは自宅が勝連にあったため遅れた。4月2日ごろ、部隊に着いた。夜間、歩しょう線があるのを知らず歩いていたら暗闇から「山」「山」との声。

 とっさに「川」と答えたが、目の前にいきなり銃剣が突きつけられて来た。合言葉は「山」に「山」。兵隊は不審な顔で尋問し、「なぜ遅くなったか」と問い詰めた。

 やっとの思いで事情を説明、通り抜けたが、しばらく行くと、馬に乗った将校が兵隊1人を引き連れて目の前に現れた。また同じような質問だ。訓練の責任者だった長友上等兵の名前を出してやっと「通れ!」と言われた。その人が第2歩兵隊第2大隊長の佐藤富雄少佐であることは、襟の階級章で分かった。

   ◇   ◇

 全員が宿舎の前に整列する中、徳丸中尉はやや力を込めた口調で全員に告げた。「お前らに陸軍2等兵を命じる」。軍服や軍靴、袴下(こした)、ゲートルなどが支給された。だが、帽子だけは三中の制帽から3本の線をはずしただけだ。三中の制服も彼らの1期先輩からカーキー色に変わっており、制帽といっても戦闘帽になっていた。

 沖縄戦が始まってから壕掘りなどの重労働がなくなり、半日交代の暗号室勤務になった。時折2時間の歩しょう任務もあったが、通信の解読と各無線隊との使い走り。「沖縄本島にくまなく日本軍が埋まっているという話を信じきっていた」(前田泰弘さん)という少年たちは、間もなく米軍上陸の報に驚かされる。

(「戦禍を掘る」取材班)

1984年12月21日掲載

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