[26 三中通信隊暗号班(3)]米軍が妨害電波

「総攻撃」の電文解読できず

 物静かな山中にいて夜間、上空を飛ぶ特攻機の音はさびしく響いてきた。「ブルン、ブルンと悲しそうな音で昼間聞いた米軍機の音とは違った」(前田泰弘さん)。残波岬の南の方の明かりが輝くと特攻機の“戦果”と受け止めた。前田さんは「名護に米軍が上陸した時も、特攻機に撃沈された米艦船の乗組員が泳ぎ着いたと聞かされた」と言うほど、特攻機の“一人一艦”を信じていた。

 だが、米軍は確実に進撃していった。通信も妨害電波で受信が困難になっていく。

 識名盛敏さんも通信を解読できなかった経験がある。「あとで分かったが、4月8日の総攻撃命令だった。妨害電波で途中が欠落した受信となったが、前後の脈絡から判断して解読したが、その時はできなかった。あとで『前任務を続行せよ』との命令があったが、前任務が分からない。その時出ていた『全力をもって名護方面の敵を攻撃せよ』という命令は後で分かった」。

   ◇   ◇

 4月8日、部隊本部は八重岳の谷間から西側の真部山に移動する。八重岳の部隊本部に前線から何の情報もないまま、いきなり目前に米軍が現れたこともあってか、移動は急なものだった。

 国吉真昭さんは、この日が父親との最期となった。警察官だった父親の名護署勤務で、那覇生まれの国吉さんも三中に入学することになったのだが、そこで国吉さん一家は多くの不幸を体験する。

 母親と6人の弟妹は前年、県外に疎開させていた。行きたがらない母親に、当時疎開を勧める警察という立場にある父親は「そういうわけにはいかない」と説得したいきさつがある。そしてまた、国吉さん一家にならって隣近所の人たちまで疎開を決断していった。

 だが、乗船した船が対馬丸だったことは、父親を深い苦悩へと落としていった。

 「父は対馬丸の撃沈を知っていたのだが、私には“秘密保持”の立場から
話さなかった。しかし、私はそれとなく知っていたのだが、悩んでいる父を見ると聞くことさえはばかるような雰囲気だった」

 国吉さんが寝ている時、同僚の警官らが父親を訪ねて来て、小声で父親を励ましていることもあった。ある夜、酔って帰って来た父親が縁側に寝ころんでいるのを起こしたことがある。その時、父親が縁側にぼう然とした表情で座り、深いため息を一つもらしていたのを国吉さんは今でもはっきり覚えている。

 たった一人残った肉親が真部山に移動する日にやって来た。「住民を安全な山中に避難させた」ことを国吉さんに伝えた。父子は多くを語らなかった。息子に対して「無理するなよ」と若い血が無謀な死へ走ることをいさめた。そのあと指揮官の徳丸春雄中尉にも会っていったという。息子が無謀な講堂に出ることを制御するため念を押しにいったかもしれない。

 父親が、息子と別れての帰り道、我部祖河で戦死したことは戦後知った。「そのころは米軍が上陸していた。もし私に会いに来ないで住民と一緒に行動していれば戦後再会できたのに…」。戦争は国吉さん一家をたった一人にしてしまった。

(「戦禍を掘る」取材班)

1984年12月24日掲載

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